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今月の言葉

2024年5月31日

幕臣四態

 慶應3(1867)年10月徳川慶喜が大政を朝廷に奉還してから、翌々明治2(1869)年5月箱館戦争終結までの期間をここでは広義の戊辰戦役と呼ぶことにする。今月は、戊辰戦役における徳川家臣団(旧幕臣)の対応を、封建と近代、恭順と抗戦の二つの軸で四態に分けて評価していきたい。
 まず、戊辰戦役における東軍(徳川方、抗戦派)にも二種類があったことがこの稿の主題である。
 封建-抗戦派の代表格は、言うまでもなく彰義隊である。彰義隊ははじめ寛永寺大慈院で恭順している徳川慶喜の警護を名目に結成されたが、その本意は薩長の政権簒奪を容認せず、徳川家への忠節を尽くすということにあった。武器は概ね刀槍。旗本の二、三男等で武術に自信がある者と、東日本の草莽出身で幕末になって徳川氏に臨時で雇用された者などを中心に構成された。束ね役は上野国の元名主出身の天野八郎。アジテーターは覚王院義観という坊さんだった。彰義隊は江戸市民の間では大人気を博したが、やがて大村益次郎率いる新政府軍の近代兵器に追い詰められ、明治元(1868)年5月15日、上野寛永寺における一日の会戦で壊滅した。
 一方、近代-抗戦派の代表は、なんと言っても榎本武揚率いる旧幕府海軍と旧幕府陸軍の脱走部隊や新撰組の残党などで構成される蝦夷共和国の一党であろう。旧幕府海軍が脱走を敢行したのはそもそも彰義隊が壊滅した数ヶ月後、徳川慶喜の処分と静岡藩の立藩が決まった後のことであるし、箱館行の趣旨も、七十万石に減知され家臣団の食い扶持に困った徳川家に、蝦夷地を賜って開拓したいというタテマエであった。つまり薩長による新国家の建設自体は否定していないのである。その一方で、この一党の軍事力は、大政奉還までの日本政府軍の中核部隊を成すもので、薩長を中心とする当時の西軍に十分拮抗しうるものであった。要求を通す自信もあったのだろう。
 このように、メンタリティにおいても前者は徳川氏に対してウェット、後者はややドライと違いがあるが、以下に記す恭順派との大きな違いは、西軍が旗印に掲げる「天皇・錦旗・官軍」というものに対して、かなり鈍感であったということだろう。
 さて、紙数が尽きるので簡単に恭順派のことについて触れたい。封建-恭順派は、いわば大多数の旗本・御家人。徳川家への忠節の念には遜色なけれども、上様が恭順なさるのであれば、黙ってそれに従い、ほかに飯を食う手段も手に職もないので、無禄にちかい減給を覚悟して、新たにできる静岡藩に、十六代となられた徳川亀之助君のお供をするというものである。この人々は実際に静岡に行ってから、武士という身分そのものがなくなるという近代への動きの中で、様々な苦労をすることになる。箱館戦争の反乱軍が(手に職を持っていたが故に)比較的早期に赦されて新政府の役職に就き、活躍の場を与えられたのに比較しても、不遇であった。
 最後に、近代-恭順派の代表選手は、徳川慶喜その人と西周ら周辺のブレーン達であろう。あるいは、(少し近代度は落ちるが)松平容保や松平定敬もふくめて、孝明天皇が存命であれば、もしかすると日本国の別の近代化を成し遂げたかもしれない「一会桑」派の人々がこのジャンルに当たる。この人々を特徴付けるものは、近代化に向けての十分な教養と抱負を持ちながら、国民統合の象徴たる天皇へのメンタリティが極めて厚く(尊皇の気持ちが強く)、それだけに「天皇・錦旗・官軍」にとても敏感であったことであろう。この稿の筆者としては、この近代-恭順派の人々が廃藩置県や四民平等に対して、どのようなビジョンを持っていたかを、もう少し知りたいのだが。