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COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
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おかずとシリアル
シリアルと言うと、コーンフレークとかオートミールとか、なんだか箱に入っている朝食用の穀類で、西洋人が牛乳を掛けて食べるようなイメージがある。が、シリアルとは本来上記を含む「穀物」「穀類」という意味である。だから、我が国で言えば、白米、ご飯。中華の饅頭や餃子の皮、イタリアのパスタやピザ生地、みんな広義のシリアルである。で、今月はこの稿の筆者が、各国の食物の中では、「おかずとシリアル(穀物)」を一度に食するものが好みであるということを書きたい。以下後述をご覧いただければおわかりのように「おかずとシリアルを一度に食するもの」とは、概念としてはファーストフードにほぼ近い。
先ず我が国では、なんと言っても、おにぎり及び丼ものが「おかずとシリアル」の代表選手である。
おにぎりの起源は古く、奈良時代初期、元明天皇の詔により日本各地で編纂された「風土記」のひとつ「常陸国風土記」に「握飯(にぎりいい)」の記述が残る。また、1221年の承久の乱で、鎌倉方の武士に兵糧として梅干入りのおにぎりが配られ、これをきっかけに梅干が全国に広まったとされる。ⅰ おにぎりには丸い野球ボール型のものと三角形のものがあり、前者は帝国陸軍、後者は帝国海軍に由来するという話もある。丼ものの歴史は比較的浅く、天丼が江戸時代、カツ丼や親子丼は明治以降となる。中華料理においては、(饅頭はただのシリアルに過ぎないので)肉入りや餡入りの饅頭、春巻き、餃子等の点心類が「おかずとシリアル」の代表である。肉まんについては、諸葛孔明が南征の途上、川の氾濫を沈めるための人身御供として生きた人間の首を切り落として川に沈めるという風習を改めさせようと思い、小麦粉で練った皮に羊や豚の肉を詰めて、それを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ、川の氾濫が静まったという起源説話がある。ⅱ
次に西洋に移ろう。英国代表は、サンドイッチとパイ。カード博打好きのサンドイッチ伯爵の話は以前本欄に取り上げた。フランス代表は、カスクートという細長いフランスパンに、ハムやチーズを挟んだものだろうか。意外なのはドイツ代表。ハンバーガーの起源はアメリカではなく、ドイツはハンブルクで船乗りらに売られていた料理“Hamburger Rundstück”(「ハンブルクの丸いもの」という意味で、牛肉のステーキと目玉焼きを半切のパンにのせていた)がアメリカへ伝わり、「ハンバーガー」と略称されるようになったという。ⅲ もう一つのアメリカの国民食ホットドッグもドイツ由来。ホットドッグの発祥は、19世紀中盤。アメリカへやって来たドイツ移民が、フランクフルトで食べられていたソーセージ「フランクフルター」を持ち込んだことが始まりと言われている。
イタリア代表は、パスタとピザ。パスタがいつ歴史に登場したか、はっきりとしたことは分かっていない。古代ローマで主食にされたプルスという食べ物がその元祖と言われている。これは小麦やキビなどの穀物を粗挽きにし、お粥のように煮込んだもの。同じく古代ローマ時代に存在したテスタロイは、その粥を板状にして焼いたもので、ピッツァやラザーニャの原型に近いものと言われている。中世を迎えると、パスタを生のままスープに入れたり、ゆでてソースとあえるようになったと考えられている。13~14世紀のイタリアでは、パスタは一般家庭に普及するようになり、15世紀にはスパゲティの元祖ともいえる棒状の乾燥パスタが作られていたようだ。ⅳ
なお、メキシコ代表としてトウモロコシ粉のタコス、トルティーヤも忘れてはなるまい。ⅰ 一般社団法人おにぎり協会「おにぎりの歴史」 https://www.onigiri.or.jp/history
ⅱ Wikipedia 饅頭(中国) — 『事物紀原』卷九の酒醴飲食部四十六
ⅲ Wikipedia ハンバーガー
ⅳ 日清製粉グループ 小麦粉百科 パスタの起源 https://www.nisshin.com/entertainment/encyclopedia/pasta/pasta_03.html2024年9月30日
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恋愛ホース論
昨月号の本欄では、世界の国々が経済発展を遂げて、いわゆる成熟社会になるにつれて、人民は次第に自由主義、民主主義を求めるようになり、今日先進諸国がよく言う「共通の価値観」を分かち合うようになる(と、信じたい)という話を書いた。
一方で、成熟社会なるものには、これまでの人類社会の爆発的とも言える成長とは異なる、あらたな特徴が生じていることも見逃すわけにはいかない。
まず「衣食足りて礼節を知る」ではないが、成熟社会においては、地球の他の国々に比較して概ね食糧は満ち足りていて、医療技術も進んでいるので、簡単に言えば、人が死ななくなる。人が死ななければ当然平均寿命は延びて、高齢化が進む。一方で、日々の糧を稼ぐためにではなく、男女が共に個人としてのやりがいや達成感のために仕事をするようになり、結果として避妊技術の進歩をベースに、結婚時期が他の社会よりおそくなり、且つ結婚しない者も増えてくる。さらに性的多様性への社会の理解も深まり、「男女が夫婦になって、社会の労働力を担う子供を産むことだけが価値」であるような社会から、価値観も多様化する。要すれば、社会の出生率が低下し、少子化が進む。以上が、成熟社会の少子高齢化と言われる現象のスケッチである。
が、本稿で述べようとするのは、(おそらくこの少子高齢化現象とも無縁ではないのだろうが)もうすこし、社会の上部構造というか、文化や人々の心の持ちようについての話である。
これは、この稿の筆者の世代が生きている間だけでもかなり変化してきたことなのだが、この頃の我が国では「炎のような恋愛」に身を灼く若者が明らかに減ったように感じるのである。時代をわれらの青春時代である昭和戦後期ではなく、もう少し昔の明治・大正期まで広げれば、大半の国民が親の決めた配偶者と、現在よりもかなり若年で結婚する習俗があった一方で、いわゆる「駆け落ち」や「不倫」(第二次世界大戦前の日本では、既婚女性の不倫は法律上の犯罪であった)をいとわず「炎のような恋愛」に身を託す者もまた多かったし、なによりもそうした「やっちまった」恋愛ではなく、単なる心の中で、自分の手の届かない異性を恋い焦がれる経験に至っては、おそらく数割の国民が共有していたのではないかとすら想像されるのである。翻って、今日の同棲合法、16歳以上の性交は己の判断で出来るという、たいへんけっこうな社会に生きている若者らが、どのような恋愛関係をもっているのかを考えると、「親の許しも得ずにつきあう」「一緒に住む」という環境自体は百年前の若者達が涎を流して羨ましがるであろうものが用意されているにもかかわらず、その心の持ちようは、必ずしも「炎に身を灼く」ものではないように思われる。
それは何故か。理由は明白で、今日の恋愛には禁忌がないからである。恋というものは、禁じられるから燃えさかるのであって、何もかも許されるような「何でもあり」社会では、恋愛は、日常の飲食と同様なものに過ぎず、べつにその度に顔を赤くしたり、興奮したりするようなものではないのではないか。この稿の筆者は、上記の考えを「恋愛ホース論」と呼んでいる。すなわちホースを通過する水の量が一定である場合、ホースの口を締めて水が通過する経口の面積を小さくすれば、水は勢いよく遠くに飛ぶが、経口面積が広ければ、水はポタポタとホースの口からこぼれ落ちるのみである。よほど巨大な量の性欲の持ち主でもない限り、「何でもあり」社会の恋愛ホースで水を遠くに飛ばすのは難しい。かといって勿論、禁忌を復活せよというのではないのだが。2024年8月30日
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自由の天地
この稿の筆者は、第二次世界大戦直後の生まれ、いわゆる戦後民主主義の価値観の中で育った。その価値観とは、第二次世界大戦の結果自由主義が専制主義(あるいは権威主義と言い換えてもよい)に勝利し、その自由主義の下、新しい世界秩序が生まれたというものである。敗れた我が国は勝者アメリカによって、新しい価値観に基づいた憲法を「与えられた」にもかかわらず、大多数の日本国民はそれを積極的に受入れ、支持した。実際筆者は今でも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しよう」という非武装平和の理想を、困難と知りつつも涙が出るほど尊いものだと思っている。さて、自由主義の本質は何かというと、人民に対する権力の抑制である。人権宣言、三権分立、代表なければ課税なし、そして「自由、平等、博愛」。これらは、主に英国名誉革命、米国独立戦争、フランス革命という18世紀頃の欧米諸国の近代国民国家建設の中から生まれた思想であり、やがて、多かれ少なかれ後進の近代国家にも引き継がれた。尺度で言えば、「人民に対する権力の抑制」のメカニズムが機能している国が先進諸国であり、十分に機能していない国(専制主義の度合いが強い国)が後進国であるというのが、自由主義のものの見方である。しかも、20世紀に起きた二度の世界大戦において、自由主義諸国家は苛烈な犠牲を払いながらも専制主義諸国に勝利したので、20世紀の後半からは、自由主義の価値観が世界秩序の基盤となった、というのが自由主義的な理解であろう。未開の後進諸国は、近代化の過程では、一時的に専制主義の形態を取ることがあっても、経済的発展を遂げると次第に自由主義化し、先進諸国のように権力抑制の政治メカニズムを持つようになることが、予測された。
だが、ここに一つの落とし穴がある。それは、国内では自由主義を標榜した英米仏などの近代先進国家は、同時に世界の後進諸国を植民地支配し、その植民地では多かれ少なかれ横暴な、専制主義的な支配を行っていたという事実である。先進諸国はその理由を「後進諸国は未開で即時には自由主義に耐えられない」として正当化しようとしたが、支配される側から見れば、それは自由主義の二枚舌であるとしか見えなかった。20世紀後半、これらの植民地は次々と独立を遂げ、少なくとも表面上は欧米諸国の軛を脱し、国内的には、建前上自由主義的な憲法秩序を持ったが、実際にはその「貧しさと後進性故に」かなりの程度に専制的な権力によって支配されることが多かった。
ソビエトや中国などの共産主義諸国も、類別すればこうした発展途上の専制主義国家の一種であるとすることも出来る。忘れてはならないのは、こうした発展途上の国々では、人民がそもそも自由主義の経験を持たないことである。今日の専制主義国家の指導者、たとえばプーチンや習近平は、第二次世界大戦の結果が「自由主義の勝利」だとは思っていないだろうし、自国が経済的に発展し豊かになったとしても、人民が自然に「権力の抑制」を求めるようになるだろうとは思っていない。20世紀末、ソビエトが崩壊し、天安門事件が起きた頃には、ロシアでも中国でも人民が自然に「権力の抑制」を求めるようになったかと思えたものだが、その後の経過をみると結局の所また専制主義に回帰してしまい、21世紀前半の今日では、いわばかつての欧米諸国におけるウィーン会議体制のような反動が多くの国々に起きているように思える。それでも筆者は、ベルリンの壁の崩壊、その直前にハンガリーとオーストリアの国境を越えた東欧人民の歓喜の顔を忘れることが出来ない。
国が豊かになれば、人民は自由の天地を求める。それは「信仰」に過ぎないのだろうか。2024年7月31日
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トロイの木馬
ギリシャ神話というのは、日本の古事記みたいなもので、半分神話、半分歴史を著したものである。「トロイの木馬」はそのギリシャ神話のトロイア戦争の条に出てくるお話である。ミュケナイ、スパルタなどギリシャの都市連合とトロイア(ダーダネルス海峡南方、現在のトルコ内の都市)との間でおこった戦争は、両軍の勇将アキレウスやヘクトルの戦死を経て膠着状態、長期戦と化した。
開戦十年を経て両軍共に戦争に倦み始めた頃、ギリシャ方の知将オデュッセウスは、ある計略を思いついた。ギリシャ軍はついにトロイア近郊の浜から去って、海へ撤退。あとには巨大な木馬が残されていた。トロイア軍は、木馬を戦利品として城内に持ち帰り、凱旋した。ギリシャ軍撃退に沸くトロイアの深夜、木馬の中に潜んでいたギリシャ軍の小部隊が、密かに内側からトロイアの城門を開くと、撤退したはずのギリシャ軍がそっと戻ってきて、トロイアの町に攻め入り、トロイアはついに滅亡したというのが、「トロイの木馬」伝説のあらすじである。
さて、ここからは現代の情報セキュリティのお話。今日「トロイの木馬」(英語でTrojan horseという)は、コンピュータの中に住み着くマルウェアの一種をあらわす言葉として使われている。「トロイの木馬」はコンピュータウィルスと似ているが、少しだけ違う特徴がある。コンピュータウィルスが特定の宿主(ファイル)を持ち、ウィルスによって改変された宿主が、次々と感染を引き起こすのに対して、「トロイの木馬」は殆ど感染拡大しない代わりに、時限爆弾のようにコンピュータの中に密かに住み着いて、ある時がくると突然起動し悪さを始める。「トロイの木馬」の行う悪さの代表的なものは情報漏洩で、この稿の筆者が知っているある研究機関では、約三年間も「トロイの木馬」が住み着いて、サーバー内の研究上の機密情報をこっそり外部に送り出していたことが、後に判明した。もちろん漏洩する情報の中にはこうした企業秘密だけでなく、端末へのログインIDとパスワードの組み合わせ、端末に格納された個人の口座番号や社会保険番号などの個人情報も含まれる。そのほかにも、神話の「トロイの木馬」と同様に、トロイの木馬の中の機能が、コンピュータセキュリティ上の防御機能(城門)を無効化し、その部分の脆弱性を利用して外部からサイバー攻撃を仕掛けて成功させるというような手口もある。社会的な被害例としては、2013年に韓国で起きた、主要放送局と銀行のネットワークが一斉にダウンし、テレビと銀行が終日機能不全に陥った事件なども、「トロイの木馬」の仕業ではないかと噂されている。我が国では、2015年に日本年金機構の100万人以上の個人情報を流出させた、遠隔操作型ウィルスEmdiviを「トロイの木馬」の一種とする見解もある。
以上述べたのは、主にコンピュータソフトの世界の話であるが、この稿の筆者が、本業の専門としている対象にハードウェアトロージャンという「木馬」がある。略称をHTというこの「木馬」は、たとえば半導体チップの回路の中や、組み込み機器(マイクロコンピュータで制御される小さな機械、たとえば自動車、ロボット、医療機器、監視カメラなどのさらに内部の電子部品、センサなど)内に住み着く極小の回路であって、ソフトウェア界の「木馬」同様に悪さをする。HTは、情報漏洩のような複雑な悪さができる機能はない。が、半導体や組み込み機器は大量生産されるので、たとえば、決められた時刻が来ると、同じ型式の機械が、全国一斉に止まってしまう(応用で、外部から機器などに短い停止命令を入力して無効化してしまう)などという悪さをすることは出来る。筆者は、ウクライナの次の時代のサイバー戦争では、このHTが登場するのではないかと思っている。2024年6月28日
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幕臣四態
慶應3(1867)年10月徳川慶喜が大政を朝廷に奉還してから、翌々明治2(1869)年5月箱館戦争終結までの期間をここでは広義の戊辰戦役と呼ぶことにする。今月は、戊辰戦役における徳川家臣団(旧幕臣)の対応を、封建と近代、恭順と抗戦の二つの軸で四態に分けて評価していきたい。
まず、戊辰戦役における東軍(徳川方、抗戦派)にも二種類があったことがこの稿の主題である。
封建-抗戦派の代表格は、言うまでもなく彰義隊である。彰義隊ははじめ寛永寺大慈院で恭順している徳川慶喜の警護を名目に結成されたが、その本意は薩長の政権簒奪を容認せず、徳川家への忠節を尽くすということにあった。武器は概ね刀槍。旗本の二、三男等で武術に自信がある者と、東日本の草莽出身で幕末になって徳川氏に臨時で雇用された者などを中心に構成された。束ね役は上野国の元名主出身の天野八郎。アジテーターは覚王院義観という坊さんだった。彰義隊は江戸市民の間では大人気を博したが、やがて大村益次郎率いる新政府軍の近代兵器に追い詰められ、明治元(1868)年5月15日、上野寛永寺における一日の会戦で壊滅した。
一方、近代-抗戦派の代表は、なんと言っても榎本武揚率いる旧幕府海軍と旧幕府陸軍の脱走部隊や新撰組の残党などで構成される蝦夷共和国の一党であろう。旧幕府海軍が脱走を敢行したのはそもそも彰義隊が壊滅した数ヶ月後、徳川慶喜の処分と静岡藩の立藩が決まった後のことであるし、箱館行の趣旨も、七十万石に減知され家臣団の食い扶持に困った徳川家に、蝦夷地を賜って開拓したいというタテマエであった。つまり薩長による新国家の建設自体は否定していないのである。その一方で、この一党の軍事力は、大政奉還までの日本政府軍の中核部隊を成すもので、薩長を中心とする当時の西軍に十分拮抗しうるものであった。要求を通す自信もあったのだろう。
このように、メンタリティにおいても前者は徳川氏に対してウェット、後者はややドライと違いがあるが、以下に記す恭順派との大きな違いは、西軍が旗印に掲げる「天皇・錦旗・官軍」というものに対して、かなり鈍感であったということだろう。
さて、紙数が尽きるので簡単に恭順派のことについて触れたい。封建-恭順派は、いわば大多数の旗本・御家人。徳川家への忠節の念には遜色なけれども、上様が恭順なさるのであれば、黙ってそれに従い、ほかに飯を食う手段も手に職もないので、無禄にちかい減給を覚悟して、新たにできる静岡藩に、十六代となられた徳川亀之助君のお供をするというものである。この人々は実際に静岡に行ってから、武士という身分そのものがなくなるという近代への動きの中で、様々な苦労をすることになる。箱館戦争の反乱軍が(手に職を持っていたが故に)比較的早期に赦されて新政府の役職に就き、活躍の場を与えられたのに比較しても、不遇であった。
最後に、近代-恭順派の代表選手は、徳川慶喜その人と西周ら周辺のブレーン達であろう。あるいは、(少し近代度は落ちるが)松平容保や松平定敬もふくめて、孝明天皇が存命であれば、もしかすると日本国の別の近代化を成し遂げたかもしれない「一会桑」派の人々がこのジャンルに当たる。この人々を特徴付けるものは、近代化に向けての十分な教養と抱負を持ちながら、国民統合の象徴たる天皇へのメンタリティが極めて厚く(尊皇の気持ちが強く)、それだけに「天皇・錦旗・官軍」にとても敏感であったことであろう。この稿の筆者としては、この近代-恭順派の人々が廃藩置県や四民平等に対して、どのようなビジョンを持っていたかを、もう少し知りたいのだが。2024年5月31日
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総力戦
第一次世界大戦というものは、日本にとっては、中国の山東省青島にあったドイツ要塞の攻略と、海軍小艦隊の欧州派遣くらいがトピックスで、日清、日露戦争から太平洋戦争に至る十年おきくらいに大日本帝国が続けてきた、謂わば連続的な戦争の一環に過ぎない印象がある。
が、世界史的に見れば、第一次世界大戦は、第二次世界大戦に優るとも劣らないくらいの画期であり、戦争というものの定義を根本から変えてしまうものであった。それはどのような画期だったかというと、まずこれまでに見なかったような大量の戦死者が出たこと、軍人以外の犠牲者がきわめて多数にのぼったこと、世界中の有力国が参戦し、長期間にわたって文字通り死力を尽くして戦い続けたこと、戦争開始時に用意された兵器では全く足りずに、両陣営とも戦中に兵器や食糧の生産、そして物流、さらには技術開発の営みを盛んにして、国力を戦争に注ぎ込んだこと、最後に戦争の決着がついたときに、ロシア、オーストリア、ドイツ、トルコなどそれまで帝国として世界に君臨してきた国々が滅亡したことなどが挙げられる。
これを要すれば、戦争は、軍隊という国家の部門が行う軍事的な争闘から、国家全体が行う政治、経済、軍事的な営みへと「発展」したということになる。そのような戦争の様相を、「総力戦」という言葉で呼ぶことが多い。総力戦とは、近代国家の総力を挙げて、国家の滅亡を賭してたたかう戦争と言うほどの意味である。
第一次世界大戦の後、もうこのような悲惨な世界戦争を、二度と起こすまいとの動機から、国際連盟という一種の世界政府的機構の萌芽が構築され、侵略戦争と武力による現状の変更は国際法的にも違法と言うことになった。が、その一方で世界の主な国々では、「次の総力戦」に備えて、戦時に国家の総力を効率よく動員する計画と法制の整備が行われた。そのことを「総動員体制」の整備という。我が国では、1938年(昭和13年)第一次近衛内閣の下で制定された国家総動員法が有名であり、第二次世界大戦後は、この法律の制定が日本の軍国主義化を決定づけたと評価されている。(が、法の本旨は、少なくとも始めは戦時における物資等の効率的な動員にあった)
「総動員」には、様々な側面があるが、主な特徴として、経済統制と言論統制の二つを挙げたい。
経済統制は、生産と物流の側面から国家の(戦争)目的に適うように、政府が計画的に民間企業の活動を規制し、資源を配分しようとするもので、第二次世界大戦の際には両陣営がともに行ったものであるが、企業活動における所有と経営の分離にどこまで踏み込んでこれを行うかによって、自由主義経済における臨時の規制なのか、国家社会主義的な企業統制なのかがかわってくる。
言論統制について言えば、戦時における情報管理(守秘)や防諜を目的とした規制は、多くの国で行われたが、それだけでなく、謀略や戦意高揚を目的として意図的に曲げられた情報発信を、政府が計画的に行うことも、総動員のための言論統制に数えられ、正当化される場合が多かった。その目的は、はじめ戦争の勝利に限られていたが、第二次世界大戦後は、「国家の存亡」のためには、意図的に曲げられた情報発信を、政府が計画的に行うことも正当化されるとする拡大解釈が、一部の情報機関や軍によって行われ、そのことが専制政治の温床となっている面も見逃せない。
結局の所、「総力戦」のための「総動員」は、パンドラの箱のようなもので、一度これを開ければ、「総力戦」の後に、自由と民主主義に復帰するのに、多くの困難が伴うことを知るべきなのである。2024年4月30日
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札幌の葬い
この数年の間に本誌で何度か、名古屋の嫁入り、岐阜の嫁入りなど昭和期の中部地方の婚礼について書いた。この稿の筆者が、人生の中で住んだことのある地方都市は、中部地方の名古屋と北海道の札幌である。そこで今月号では、昭和期の札幌の葬祭習俗について書くことにしたい。
まず、一般論としてだが、昭和期の日本の田舎では、どちらかというと婚礼は「家」の行事、葬礼は「村」の行事という傾向があった。すなわち結婚披露の主催者は新郎新婦の父親であり、案内状も「この度両家の婚儀相整い、ささやかながら披露の宴を催したく、ご多忙の所恐縮ながらご来駕給わりたく・・」といった文面が通常であった。一方葬礼はというと、故人が誰であっても「家」の者は遺族であるから、故人を悼んで呆然としていることが多く、周囲の地域の者が、葬式の世話やら通夜の炊き出しやらを手伝うのが通常であった。よほどの分限者になれば、それでも通夜の門前には大きな○○家と墨書した提灯か何かを掲げたものだが、あまり金のない家であれば、玄関先は「忌中」の貼り紙で済まし、家の中では近所のおばさん達が立ち働き、座敷ではこれも近所の者が故人を悼むにしてはやや無遠慮な酒盛りを行い、遺族は奥の一間の棺の前で、おとなしくめそめそしているというのが平均的な姿であっただろう。
さて、北海道である。北海道はその昔、開拓民の土地であり、開拓民とは、一度本土の故郷と親族を捨てて海を越え、北辺の地に入植した者である。なので、故人の遺族なる者は、同じ屋根の下に住む数名以内であって、隣近所とか離れた土地から「親戚のおじさんおばさん」などが駆けつけてくることは余り想定されていない。そこで、葬祭自体が村落の行事として扱われ、実行委員会主催の形式で行われる。実行委員長は、村落の長老とか、町内会長とかが就任する。昭和期でも第二次世界大戦後になってくると、札幌の市中ではいわゆる地域コミュニティのつながりが次第に薄くなってくる傾向にあり、その場合、実行委員長は括弧付きの「ご近所の有力者」ということで、地元の市議や道議といった政治家に頼んでなってもらう様な場合も多くあった。
葬儀の会計(香典を集めて、寺または式場や坊さんの支払いに充てる)も実行委員会単位で行うので、赤字にするわけにはいかない。よって葬儀費用は本土の葬儀よりも質素なことが多い。この稿の筆者は、十年ほど前にこの札幌形式の葬儀に出席して驚いたのだが、葬儀式場が昼間だけで二ラウンドまわるように運営されていた。私の出席したのは早いほうの会であったので、なんと朝9時開式、10時30分にはもう出棺という次第であった。
もう一つ、この実行委員会形式とつながりがあるのかないのかよくわからないのだが、地元紙の地方版(北海道新聞であれば札幌市東部版とか○○支局版とかそんな頁)にやたらと「普通の人」の死亡記事が掲載されるのである。本土の新聞では、訃報が(広告費を払わずに)掲載されるのは、芸能人、スポーツ選手、政治家等の「有名人」だけであり、一方通称「黒枠広告」というものは高価有料と決まっているから、そんなものを掲載するのはだいたい元企業の経営者とか「公人」のすることであり、結局の所、新聞には「普通の人」の死亡記事は有料でも、無料でも載らないのである。
が、札幌ではだいたい数行くらいずつ、ご近所の普通人の死亡記事が、毎日紙面一頁の半分以上は掲載される。まあ、昔の北海道では人口密度が低かったので、死亡記事でも読まなければ、ほかに情報を知る手段がなく、葬儀に駆けつけることができなかったのかもしれないが。2024年3月29日
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技術移転
はじめに、以下のお話は、この稿の筆者が創作した、まったく架空のものであり、企業名等実在のものを連想されるようなことがあったとしても、それは読者の気のせいだということをお断りしておく。
さて、鈴木君と加藤君は、1980年代、Japan as No.1の時代に同じ中堅大学の工学部を出て、大手企業初芝電機にめでたく就職した。鈴木君は半導体事業部に、加藤君は家電事業部にそれぞれ配属され、地方の製造工場などに勤務した後、本社の設計部門の技術者となった。二人とも入社後の人事評価は平凡なもので、可もなく不可もなく、とくに出世に遅れることも抜擢されることもなく、主任や課長になるのもほぼ同時、給料の手取額もほぼ同額であった。
鈴木君の事業部での仕事は、ICカード用のセキュリティ機能の高い半導体の設計。デスクの隣には、学会などでも超有名な天才技術者がいて、初芝半導体設計の固有技術を一身に担っており、鈴木君はその天才技術者のアシスタントとして、彼の発想やノウハウを回路図に落とす仕事をしていた。一方加藤君の事業部は、冷蔵庫やエアコンなど初芝が第二次大戦直後から得意としてきた消費者向けの製品を手がけており、世間からは「初芝製品は値段も高いが品質は優秀」と評価されてきた。二人に逆風が吹き始めたのは、二十一世紀に入ってしばらく経ってから。鈴木君が設計してきたロジック半導体は、「少量多品種、手数ばかりかかって儲からない」とされて、戦略製品の座から外され、事業部はメモリ半導体に特化することになった。設計部門では、例の天才技術者だけは優遇されて技師長に出世したが、他のロジック半導体の設計者は別部門に転勤させられたり、早期退職奨励制度を利用して大学や他社に転出したりして、鈴木君のデスクの周囲はすっかり淋しくなった。そんなある日のこと、鈴木君に思いがけないヘッドハンティングのオファーが来た。
隣国で半導体事業の強化を図っているデリラ電子の設計部門から、技術顧問に招聘したいというのだ。条件はなんと3年で契約金1億円。鈴木君はすぐに「これは自分の技術力ではなく、デスクの隣の天才技術者の知見がほしいのだな」ということがわかった。たしかに初芝電機も天才技術者のノウハウは、しっかり知財として確保しており、彼が他社に流出しないように優遇もしている。
が、天才技術者のノウハウは、鈴木君の頭の中にもすっかり焼き付いている。鈴木君もちょっと迷ったが、一生の間に1億円というお金を一度に手にするチャンスは二度と来ないと思い、デリラ電子の招聘に応じる決心をした。もちろん退職にあたっては、初芝で知り得た機密は一切漏洩しないという厳しい約束をさせられたし、鈴木君も回路図を持ち出すなど産業スパイのようなことはしなかったが、回路図は鈴木君の頭の中に残っているし、デリラ電子技術顧問になってからの指導内容が前任社の機密に触れるかどうかは何の証拠も残らないのでわからない。
一方の加藤君の家電事業部は、初芝家電という子会社に分離されたが、初芝は隣国の安い製品との競争に負けて、家電事業から撤退することになり、初芝家電は工場ごとなんと隣国のデリラ電子に売却されてしまった。そして加藤君を待っていたのは、リストラという名の馘首通告だった。
さてここからは、我が国が技術力において、国際競争に負けないためには、どうしたらよいのかを問う課題です。初芝電機は、自社の半導体設計技術を守るために、平凡な技術者鈴木君に1億円を出して引き留めるべきだったでしょうか。それともあなたは、鈴木君も加藤君もほぼ同能力であれば、待遇は平等、給料はほぼ同額であるべきと考えますか。2024年2月29日
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徳川家康(続)
武田対戦期の続きである。1579年、家康の長男信康を舅信長の命で切腹させるという大事件が起きる。通説では、信康の正妻五徳姫(織田信長の息女)による父信長への讒訴によって、信長が徳川の使者酒井忠次に信康の動向を問うたのに、酒井が一切庇わなかったのが原因とされている。が、昨今では、徳川軍団内の西三河(信康管轄、最も古くから服属している国衆)、東三河(酒井忠次の管轄、清須同盟後に服属した国衆)、遠江(家康直轄、「武士の専業化」に近い新しい形態の武士団)の内紛があり、家康自身が内紛の収拾のために信康を犠牲にせざるを得なかったという新説も出てきた。また信康と武田間の密かな連携の動かぬ証拠を織田に押さえられたのだという説もある。いずれにしても家康は驚異的な忍耐、自己抑制で長男信康を捨て、織田信長との連携を守り、その後1582年織田と共に武田勝頼を滅ぼし、対武田戦に最終勝利する。
戦国最終期の有力大名期(1582年-)。武田滅亡の功によって駿河国を得て駿、遠、三の領主となった家康は、その直後に起きた本能寺の変によって織田の軛からも解放され、同年の天正壬午の乱によって甲斐、信濃も得て、全国区の戦国大名となった。甲子園で言えば、準決勝くらいにあたる。だが戦国大名の決勝戦の相手、羽柴秀吉とは、1584年の小牧長久手の戦いで勝利は得たものの、西日本を平定し経済面で圧倒的優位に立った秀吉に徐々に圧迫され、1586年ついに屈服し、臣下の礼を取ることを余儀なくされる。
豊臣公儀期(1586年-)戦国大名の決勝戦で敗れた家康は、全国をほぼ統一した豊臣公儀政権の最有力閣僚となる。この時期の家康の最も重要なトピックスは、1590年秀吉の小田原征伐の後、戦国大名として営々と築き上げた駿、遠、三、甲、信五カ国の領邦を召し上げられ、新知として、後北条氏の領邦であった関東に移封されたことであろう。通説では、秀吉が大阪への軍事的脅威を取り除くために家康を遠ざけたと言うことになっており、確かにその側面もあったのであろうが、この稿の筆者は、一方で秀吉の日本統治政策の中で家康を以て「豊臣公儀内の東日本の仕切り人」(室町政権における関東公方の役割)とする意味もあったのではないかと推察している。移封後の家康が関東で金貨を基盤とする独自の通貨発行権を持ったこと、豊臣氏に対する潜在的な脅威であったにもかかわらず朝鮮戦役でも出兵を免れたことなどがその論拠である。秀吉の死後、1600年関ヶ原合戦の経緯(上杉攻め、関西での石田三成クーデター、東海地域までの大名を引き連れての西方への転戦、関ヶ原の戦いに勝利、術策を弄しての大阪城の占領)も「豊臣公儀政権の最有力閣僚」「東日本の仕切り人」という家康の立場を理解することによって読み解ける様に思う。
江戸幕府期(1603年-1616年)この時期、戦国トーナメントで一度は準優勝に終わった家康は、最後のいわば復活戦で優勝を遂げる。その中で、注目すべきは、征夷大将軍就任後、当時政治経済の中心地であった大阪・伏見ではなく、草深い東日本の江戸に幕府を開いたことであろう。
その理由については、政権の中枢を東進させることによって東日本の未開地開拓を促進し、長期的に見て日本の国内経済開発を図ったとする説がある。ⅰこの稿の筆者は、それだけでなく、豊臣公儀期の後半、家康は既に「東日本の仕切り人」として江戸に統治基盤を有していたのであり、その基盤を用いることによって豊臣公儀から相対的に離れた「新公儀」を設立することが容易であったからではないかとも思うのである。ⅰ 本郷和人氏の説
2024年1月31日
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徳川家康
戦国時代における各地の大名達の興亡劇は、日本歴史の中でももっとも物語性に富んでいて、時代小説の半分以上は、この時期を題材にしていると言っても過言ではない。そして戦国期のことを少し詳しく調べてみると、日本中が一つの大きなトーナメント戦を展開していて、あたかも甲子園のごとく地区予選、甲子園の一回戦、準々決勝、準決勝、決勝と進んで、最後に徳川家康という人が優勝したというようにも読めるのである。この家康という人は、しかも地区予選でも殆どシード権を持っていなくて(豊臣秀吉ほどではないが)、地区予選の最下層に近いところから勝ち上がってきた。そして各々の時期で、家康は自分の生きがいや振る舞いを微妙に変化させてきたように見える。
まず、竹千代期。(誕生1543年-)彼の実家の松平氏は、西三河の土豪中の有力者ではあったが、松平家自体が二十数家もあって、その中には竹千代の実家にとってかわる力がある家もあった。つまり周辺の国人衆(後に服属の度が強まって「三河以来の旗本」になる)とそれほど変わらぬ力しかなかった。東三河の戸田氏に騙されて織田家に売り飛ばされたり、捕虜交換で今川氏の人質になったり、軽い扱いを受けたのも松平家の実力がその程度であったことを示している。幼時の竹千代はその現実を受け入れるしかなかった。
松平元康期。(元服1555年-)駿府の人質であったこの時期、彼は太原雪斎に見いだされ、後の築山殿を妻として、今川氏の縁戚に取り立てられ、今川の次世代の有力な部将候補となったものとこの稿の筆者はみる。今川軍団にもこの時期「武士の専業化」の萌芽が見られⅰ、元康にとっては、何か自分の新しい未来が開けたような気持ちだったのではないか。
清須同盟期。1560年桶狭間の戦いの直後、松平元康は駿府に帰らず、今川氏の「捨てた」岡崎城に入城して独立。西三河の国衆を束ね、やがて敵対していた織田信長と同盟を締結する。
岡崎入城の決断は、今川軍団内での自己の未来を捨て、西三河の国衆の武力を背景とする小領主としての自立を選ぶもので、相当の迷いがあったと想像される。それでも、元康が岡崎の国衆を選んだのは、義元の死によって今川軍団における自分の未来が見えなくなったと感じたこと、あるいは義元の後継者氏真との人間関係に齟齬があったことも想像される。三河の国人側から見れば元康の独立は、今川氏支配による収奪にあえいでいた彼らの現実からの解放を意味し、歓迎された。元康は、今川義元の偏奇「元」を捨てて家康と名告り、やがて織田氏の仲介で朝廷から三河守の官位に叙せられ、徳川家康と称するようになる。家康は東三河をも勢力圏に入れて戦国大名の最小単位である「国」の領主となる(いよいよ甲子園に出てきた)。その後は織田信長の天下統一事業に駆使されるようになるが、家康は誠実に同盟を守り一度も信長を裏切らなかった。
武田対戦期。(浜松移転1570年-)左記は通常清須同盟期に含まれるが、筆者は三河と言う小国の領主から、遠江を得て東海地域の(弱小だが)戦国大名となったと言う意味で、トーナメント戦の重要な一階層を進んだと見る。この時期の家康は織田氏に服属しつつも名目上は同盟者として、強敵武田氏の西への侵攻を阻止する役割を全うした。1572年三方原では破滅に近い敗北を、1575年長篠・設楽原では織田氏との連合の下で決定的な大勝利を経験した。だが、その後1579年長男信康を舅信長の命で切腹させるという大事件が起きる。
ここからについては、次号を参照されたい。ⅰ 元康だけでなく、たとえば桶狭間で戦死した井伊直盛などもこうした国人から切り離されて
今川氏に近侍する部将の候補だったのではないかと、この稿の筆者は考えている。2023年12月27日
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艦名(続)
本誌2016年3月号の本欄で、大日本帝国海軍の軍艦名を取り上げた。命名の規則として、戦艦は日本の律令制下の国の名、重巡洋艦は山、軽巡洋艦は川、一等駆逐艦は気象、二等駆逐艦は草木や花から名付けられたこと。おしなべて陸軍の装備命名が「勇ましい」基準であるのに対して、海軍のそれは優美であって、平和的であったことなどを述べた。
さて、今号では、それを継承した現代の海上自衛隊の護衛艦の名前について取り上げたい。
以下に述べるとおり、現在の護衛艦は、殆ど旧帝国海軍の軍艦名を踏襲している。ほとんどの艦に旧海軍の「先代」がいる。が、一つ大きな違いがあるとすれば、すべて平仮名で表記されていて、漢字ではないというところであろうか。
周知の通り、海上自衛隊は、旧海軍が一度壊滅した後、米国から支給された小型艦艇で再建を始め、次第に大型艦を国内で建造するようになった経緯がある。そこで、まず、一番隻数が多い小型のDD(destroyer = 駆逐艦)クラスの名前から紹介を始めたい。「むらさめ」「はるさめ」「ゆうだち」「きりさめ」「いかづち」「あけぼの」「ありあけ」「たかなみ」「おおなみ」「まきなみ」「さざなみ」「すずなみ」「あきづき」「てるづき」・・・そのほか多数。概ね旧海軍の一等駆逐艦の命名を踏襲している。
次に紹介するのは、ごく最近出てきたFFM(多機能フリゲート艦)という艦種で、こちらは、旧海軍の軽巡洋艦名をそのまま踏襲している。「もがみ」「くまの」「のしろ」「みくま」がすでに就役しているか、進水して艤装中である。艦の形状は、ステルス性に配慮してやや丸みを帯びた巨大な構造物が艦の側面からそのまま上部に向かって構築されている不思議なものだが、省人員で多様な用途に対応可能の由で、今後この種のフリゲート艦が多数建造されるらしい。川の名前の護衛艦は他にもあって、「あぶくま」「せんだい」「おおよど」「じんつう」「ちくま」「とね」(先代はいずれも第二次大戦期の軽巡洋艦としてよく知られている。とくに「大淀」は戦時中の一時期、連合艦隊旗艦を務めたこともある)はDE(destroyer escort)という艦種で、主に沿岸近海の防御の任に当たっている。
山の名前は、というと、艦種名称はDDG(ミサイル護衛艦)で一般にはイージス艦として知られている。日本海に展開して大陸から打ち込まれてくるミサイルを迎撃する役割(そればかりではないが)を担っている。「きりしま」「こんごう」の先代は帝国海軍の高速戦艦であったし、「あたご」「あしがら」「まや」「はぐろ」「みょうこう」「ちょうかい」の先代はいずれも連合艦隊第二艦隊の代表的な重巡洋艦であった。
そして国の名前は、DDH(ヘリコプター搭載護衛艦)。「かが」「いずも」「いせ」「ひゅうが」が現役であるが、先代との比較で少し詳しく述べると、先代の「加賀」はワシントン軍縮条約の結果廃艦になるはずであった戦艦を空母に改造したもの、先代の「伊勢」「日向」は航空戦艦と言って、戦艦の後部甲板を改造して航空機を搭載したもの。いずれも「艦種を空母に改造」がキーワードである。
現代の海上自衛隊がかねて航空母艦を望んでいながら諸般の事情から許されなかったものが、今般ヘリコプター空母「かが」「いずも」の「改造」によって航空母艦をはじめて手に入れたのも、背後に命名者の願いを見ることが出来る、というのはいささかうがち過ぎだろうか。また、「いずも」の先代「出雲」は日露戦争時代の装甲巡洋艦であるが、第二次大戦期には第三艦隊旗艦として長く上海に駐留していたため、現代の中国人から「帝国主義的命名で印象が悪い」とか言われている。2023年11月30日
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ベクトル量とスカラー量
教育における偏差値と個性という話である。
とかく、日本人はなんにでも序列をつけたがる。教育適齢期にある児童生徒の親の多くは、一定の年齢層のすべての日本人の中で、自らの子女が何番目に位置するかを知りたがる。
全国一律の「学力」の序列と、全国一律の進学先の学校の序列があって、「自らの子女の学力がこれくらいだから、ふさわしい学校はここくらい」という関係が明らかであることに何故か安心する。そして子女の学力とふさわしい学校の関係が覆らないことが「公平・平等」と考える。
そうした親にとって、序列の指標は一般的な「学力」であって、「国語、算数、理科、社会、(英語)」のどの科目が何点かではなくて、「総合得点」乃至「総合点の偏差値」が問題である。(後で詳しく述べるが、体育とか芸術とかいう科目は通常「学力」に含まれない。何故かというと体育や芸術は天分によるところが多く、努力によって高得点をあげることが困難であるからである)。全国一律の共通テストのようなもので、生徒が配点はともあれ総合点を何点か取ると、その総合点でだいたい行ける大学のメニューが決まっていて、生徒はメニューの中から、まあ文系とか理系くらいの大まかな選択肢で進学先を選択するのである。そこには、○○大学の△△学部に行って××教授の講義を聴きたいなどというシャープな選択肢はない。
これまで述べてきた考え方は、数学的に言えば、「学力」の量をスカラー量(大きさのみを持って方向を持たない量、物理量で言えばたとえば重さのようなもの)と理解している。
ところが、「学力」の値はベクトル量(大きさと方向の両方を持つ量、物理量で言えば力とか位置)だとする考え方もある。下の絵を見てほしい。この絵では、青い太線で描いた矢印が、太郎の「学力」であると考える。太郎の学力の方向と、各科目の矢印の方向は若干ずれているので、太郎の各科目の得点は、太郎の矢印の端から各科目に直角におろした直線の端(緑の点線とオレンジの矢印の交点)の値=cos(科目)太郎となる。
つまり太郎の各科目の得点とは太郎の学力の「影」なのであって、その値は太郎の学力の方向によって微妙にかわってくる。たとえば太郎の学力の方向が「体育」や「芸術」などの方向に著しく近似していると、これらの科目を除外した太郎の学力は不当に低く評価されることになりかねない。
「学力」をスカラー量と考えるか、ベクトル量と考えるかは、教育というものの本質を理解する上できわめて重要である。前者を取れば偏差値序列主義の教育が横行する。後者を取れば太郎の学力の方向は、「太郎の個性」であると考え、「個性を伸ばす教育」が可能となる。その代わり太郎の学力の絶対値は容易には測れないので、太郎と隣の次郎や花子との学力比較は困難となる。2023年10月31日