お役立ち情報
COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
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因縁
英国近現代史における二組の親子の因縁話である。
19世紀後半、英国政治のライバルと言えば、保守党(トーリー党)のベンジャミン・ディズレリーと自由党(ホイッグ党)のウィリアム・グラッドストンであった。前者が地主貴族層に依拠しながらも貧困層への社会政策に目を向け、一方で多くの植民地を持つ大英帝国の建設に功績があったのに対して、後者は勃興しつつあった商工事業者に依拠して、「平和・緊縮財政・改革」を掲げて、ビクトリア朝期をつうじた、リベラリズム(政治的自由主義、平等、自由貿易、地方自治など)の方向への潮流を主導した。さて、保守党と自由党は、各々党内に突出した叛乱分子のグループを抱えていた。
保守党の叛乱分子のリーダーは、大貴族マールバラ公爵の次男ランドルフ・チャーチル。貴族階級の出身ながら、より貧困層に向けた社会政策を標榜し、ディズレリーの没後は「プリムローズ・リーグ」(ディズレリーの好んだ桜草の花にちなんで命名したという)という大衆団体を組織して、保守党の選挙において下層階級からの集票に貢献した。
自由党には、バーミンガム市長出身のジョゼフ・チェンバレン。こちらもかなり社会主義的な政策を掲げつつ、「自由党全国連盟」という議会外の大衆団体を組織して、自由党の選挙に貢献した。
二人は、共に議会内、党内では少数派であったが、大衆組織を握っていた故に、党内では無視することの出来ない存在となっていたのである。
やがてチェンバレンは、自由党の党首グラッドストンが、アイルランド自治法案にかまけて自己の立案した地方自治政策に無関心であったことなどを契機に自由党を離れ、国内的にはリベラルだが対外的には帝国主義者であったホイッグ貴族のハーティントン侯爵とともに、保守党陣営に身を移した。一方その頃ランドルフ・チャーチルは、保守党内閣の蔵相の地位にまで栄達を遂げていたが、強すぎる自己過信故に、保守党貴族層の嫌忌する軍事費の削減予算を組んで、反感を買い内閣を追われた。そのときの首相ソールズベリー侯爵は、チャーチルを内閣から追った後任をチェンバレン/ハーティントン派に求めた。つまりこの自由党を離党した派閥(アイルランド自治に反対であったので、「自由統一派」と呼ばれる)が手許に存在する限り、チャーチルは不要であったのだ。
チャーチルは、その後脳に深刻な病を抱えて、政治家として立ち直ることが出来なかった。チェンバレンは、その後保守党と自由統一派との連立政権で植民地大臣などをつとめ、社会政策よりも帝国主義に寄った立ち位置での業績が大きい。
さて、二人の子孫の因縁話である。チェンバレンには政治家となった二人の息子がいた。兄のオースティンは外相としてロカルノ条約を締結し、ノーベル平和賞を授けられた。弟のネヴィル・チェンバレンは、1930年代の英国首相。ヒトラーとの妥協で有名なミュンヘン会談の当事者である。このときチェンバレンの対独宥和政策を同じ保守党内で厳しく批判した者が、誰あろうランドルフ・チャーチルの長男ウィンストン・チャーチルであった。チェンバレンの宥和政策は結局失敗し、ナチスのポーランド侵攻とともに英国は1939年9月対独宣戦を布告し第二次世界大戦が始まる。が、翌年5月ノルウェーと西部戦線での敗退の責任を問われてチェンバレンが首相を辞任すると、あらたな挙国一致内閣で首相の印綬を帯びたのは、ウィンストン・チャーチルであった、と言うお話。2023年8月31日
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この道一筋
【設問】 以下の文章を読み、末尾の問いに答えなさい。
○○島は、海に面した小さな島です。穏やかな水道をへだてて、本土の港まで連絡船が運航しており、英吉さんは連絡船の船長として、長く島の人々の暮らしを支えてきました。
英吉さん夫婦は○○島に住み、島の人々とも大の仲良しです。島が高齢化する中で、まだまだ元気で働いています。「平成の大合併」で島は本土の港町の一部となりました。それに伴って選挙区の区割りが変わったせいなのか、突然これまで島民の念願だった、島と本土の港町をつなぐ架橋の話が具体化し、あれよあれよという間に「ふるさと創成」だかの公共事業の一環として、数年後には連絡橋が完成する運びとなりました。さて、連絡橋ができれば当然連絡船は廃止です。
では、英吉さん夫婦は、これからどう暮らしていけばよいのでしょうか?あなたの意見を回答欄に200字程度で書きなさい。
<太郎の回答>
英吉さんは、若い頃船員になってから、船の仕事しかしたことがない。この道一筋の人である。
定年までまだ間があるというなら、どこか外の土地で船の仕事を見つけるしか彼の働く道はない。
連絡船の会社は、橋ができると解散するそうだから、それまでによその土地で船の仕事を見つけるのは、英吉さん本人と会社の責任である。
<桃子の回答>
これまで島の人々は、英吉さんの連絡船にひとかたならぬ世話になった。連絡船がなければ島の人々の暮らしは成り立たなかった。英吉さんは定年まで町役場で再雇用して、子供達に海のことでも教える仕事をしてもらうのがよいのではないか。
合併で町が広くなってしまい、役場も本土側に行ってしまったので、色々難しい問題はあるだろうが、島民には、英吉さん夫婦がこれからも島に住めるように考える責任がある。
<次郎の回答>
そもそも、令和の世の中で、「この道一筋」を貫いてきた英吉さんの生き方が問題なのではないか。
これまでも、これからも日本はどんどん変化していく。英吉さんだって、連絡船の船長をやっている間に、たとえば無線技師とか、漁船のメンテナンスとか、何か趣味や副業でもよいから次の仕事につながるような、別の何かを準備しなければいけなかったのではないか。橋ができるまで、短いがまだ時間がある。英吉さん夫婦が、島に住み続けたければ、急いで第二の人生の仕事を準備するほかはない。
<この稿の筆者の論評>
英吉さん夫婦の問題は、他人ごとではない。たとえば、現在人手不足で話題の路線バスの運転手だって、あと十年もすれば、自動運行の無人バスが実用化されて、仕事がなくなってしまう。それを知っているから、路線バス運転手の応募者が少ないのだ。都会ではロボットに宿泊サービスや介護までやらそうとしている。少子化が止まらず、移民も受け入れないこの国では、機械に頼って人間の仕事を少なくしようとする流れは止まらない。「この道一筋」で仕事への「こだわり」や「夢」をもっても、当のその仕事がなくなってしまうかもしれない。「この道幾筋」が正解なのだ。2023年8月1日
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岐阜の嫁入り
以前本欄で「名古屋の嫁入り」と題して、昭和50年代の名古屋市民の結婚に対する考え方、派手な披露宴と「しーっかりと大きい」引き出物、嫁入り道具の移動が重要な意味を持つこと、「在所」の婿自慢等を書いた。今月はその続編として、名古屋の隣、岐阜の町で実際にあった披露宴の事例について、この稿の筆者が経験したことを書く。時代は同じく昭和50年代、筆者が二十代半ば頃の話である。
H君とKさんは共にこの稿の筆者が大学で所属していた放送のクラブの後輩である。二人は、クラブ内恋愛で、ちょっとしたドラマを経て卒業一年後くらいにぶじ結婚の運びとなった。H君の出身は石川県、たしか能登半島の奥の方ではなかったかと思う。Kさんは岐阜の町中の高校を出て東京の大学に進学した。K家ではおそらくK嬢の結婚に備えてそれなりの資金を貯蓄していたのであろう。K嬢をH君に嫁がせることに異議はないが、披露宴が能登半島の奥で開催されて、岐阜の人々に見せられないのは困ると考えたのであろう。両家協議の結果披露宴は岐阜市内の有名な料亭で開催、H家の親戚一同は、当日朝能登をバスで出発し、岐阜市に繰り込むことで話がついた。(後から考えると、このバスの車中ですでに祝杯を挙げる親戚もいたのだと思う)
さて、披露宴の司会者はと言うと、当時名古屋に在住していたこの稿の筆者が務めることとなり、週末に二度ほど、会場となる岐阜の料亭に通って、万端打ち合わせることとなった。まずちょっとした小競り合いがあったのは、会場側の司会マニュアルという台本のようなものがあり、披露宴冒頭「本日は席次万端整いませず、ご不満の向きもあろうかとは存じますが、めでたい席に免じて・・」と言えと書いてある。それを省略しようとしたところ、会場側が目を三角にして「この台詞だけは、必ず言っていただかないと困ります」と言うのだ。新婦K嬢の口添えもあって渋々了承したものの、心中では「なんでこんなアリバイ工作みたいな台詞を・・」と不満であった。
司会者冒頭の辞は結局「新郎新婦が所属しておりました放送研究会のアナウンス読本に“暖かくなる花曇りの午後”という言葉がございます。そんな言葉がふさわしい今日昭和○年○月○日、ただいまより、H家、K家結婚披露の宴を開催致します。本日は席次・・」というものになり、続いて媒酌人による新郎新婦紹介、主賓の祝辞、乾杯の挨拶と滞りなく進み、けっこうたくさんの来賓の挨拶が新郎側、新婦側交互に行われて、新婦一時退席となる。その前後だったか、新婦の日本舞踊のお師匠さんがひとさしお祝いの舞いを舞われ、その答礼に新婦がまた舞うという儀式があった。
さて圧巻は、新婦お色直し入場である。この料亭では新婦が歩いて入場するのではなく、モクモクとドライアイスの白煙がたなびく中を、お色直しを終えた新婦が舞台中央にせり上がってくる仕掛け。そのせり上がりの間舞台の袖には左右三人ずつの料亭従業員がゴム仕掛けの紙の鳩を持って控えており、司会者が小声で「鳩!」と合図すると、鳩が一斉に新婦を祝して舞台に羽ばたくのであった。ケーキカットの後は、能登と岐阜の余興合戦。手許の台本ではとっくに披露宴は終わっているはずなのに、とくに能登勢からは次々と追加余興の申し出があり、H君のご近所の皆様の「オハコ」を全部歌っていただかないと「このままでは、能登に帰せない」と幹事役が仰るものだから、もうどうとでもなれと次々と放歌高吟を紹介し、ようやく新郎新婦の両親へのお礼言上、両家代表挨拶、お開きとなったのは開始後3時間20分。筆者の披露宴司会最長時間記録であった。2023年6月30日
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ニンニク
古来我が国では鱗茎を食用とする臭いの強いネギ属の植物を総称して蒜(ひる)と呼んだ。蒜には大蒜、小蒜、野蒜・・などの種類があって、ニンニクはその中の一種である、大蒜にあたるという。日本の中世、仏教では、ニンニクの強精作用が煩悩を刺激して修行に害を為すということから、ニラ、ネギ等とともに五辛の一つとして僧の食用が禁じられた。大蒜のことをニンニクと呼んだ語源は、あらゆる苦難や屈辱に耐え忍ぶという意味の「忍辱」という仏教用語から来ているとのこと。が、実際には、つらい修行の最中に、精力を補完するために密かにニンニクを口にして、栄養不足をしのいだ修行僧もいたのだとか。
ニンニクの原産地は中央アジアらしい。紀元前三千年以上昔、既にエジプトで栽培されていたことが分かっている。現存する最古の医学書「エーベルス・パピルス」には薬としても記載されている。ⅰ 我が国でも8世紀頃にはニンニクには、大陸から伝播していたとみられる。ニンニクには、効能と臭いという二つの面があるが、1709年(宝永7年)に刊行された貝原益軒編「大和本草」巻之五 草之一 菜蔬類では、「悪臭甚だしくとも効能が多いので人家に欠くべからざるもの」とされている。
ニンニクの効能について、以下「にんにくのことがなんでもわかる」と称する「にんにく大辞典」ⅱ というサイトを引用しながら述べることにする。このサイトによれば、ニンニクには血圧低下、風邪の治療、精力向上、食欲増進、疲労回復、不眠や焦燥の解消などのほかに、癌、心筋梗塞、動脈硬化、高血圧、脚気、腰痛、神経痛、糖尿病、冷え性、痔疾、水虫等々の諸病の予防や抑制の効果があるのだとか。もうこうなってしまえば、ニンニクは万病に効きますと言っているようなものである。
そのニンニクの効能の内、殺菌効果の中心を成すものは、アリシンという成分である。が、アリシンは、ニンニクそのものに含まれているわけではない。1951年にスイスのノーベル賞科学者・ストールとシーベックが、細胞内に蓄えられている無臭のアリインという成分と維管束にある酵素アリイナーゼが反応することで、はじめてにおい成分アリシンができることを発見した。要するところ、ニンニクをおろし金でおろしたり、包丁で刻んだりして、さらにそれが酸素に触れると、アリインやアリイナーゼが反応して、アリシンが出来るという訳なのだ。このアリシンは、ニンニクが傷つけられることによって外部に対して防御機能を発揮する殺菌効果の素であるのと同時に、ニンニクのあの強烈な臭みの素でもある。お茶の類や青汁に含まれるカテキンはこの臭みを消す効果がある。またアリシンは、蛋白質と結合しやすいため、牛乳、チーズ、ヨーグルトなどの乳製品も消臭効果がある。
さて、ニンニクと言えばその臭み故に、魔物を退散させる効果があるとされてきた。西洋社会では、先ず吸血鬼ドラキュラがもっとも忌むものがニンニクであり、ドラキュラ退散を願う者は、軒端にニンニクをつるして置いたとされている。さらに、西洋の子供達は、なくし物をしたとき「ニンニク、ニンニク」というまじないを唱えるのだそうだ。これは失せ物を隠していた魔女が、ニンニクの臭みで退散し失せ物を返してくれるからだとか。我が国では、「古事記」に登場する日本武尊が、信濃峠だかで悪霊に襲われて、噛んでいた蒜を投げつけて退散させたという言い伝えもある。
ニンニクは西洋では、特に肉料理の味を調えるのに用いられてきた。我が国でははじめ薬として用いられてきたが、江戸も後期に進むにつれて猪、鹿などを鍋で煮て食べる肉食習慣が普及し、ニンニクを食材に用いる様になってきた由である。ⅰ Wikipedea にんにく
ⅱ https://www.229dic.com/2023年5月31日
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若衆宿(続)
前号に続き、若衆宿の話である。先月は、若衆宿、娘宿が江戸時代から続いた村落共同体の青少年の夜学制度であり、儒教道徳に基づく武士階級の青少年教育とは異なるコンセプトで並行して存在したこと、その内実は農事を中心とした職業訓練と共に、若者に自治の中で世間知を身につけさせるようなものであったこと、その世間知の中には性教育や夜這いの要素などもあったことなどを述べた。今号では、これらの制度の負の側面、とくに男性の若衆宿における「いじめ」の問題について述べたい。前号でも引用した朝日新聞主催司馬遼太郎没後10年シンポジウム「街道をゆく」の世界の中で、山折哲雄が司馬遼太郎の思索として次のようなことを述べている。ⅰ
● 若者宿で生活する間は、若者の間に、絶対の平等主義が貫かれていた。
一方でその平等主義、若者宿のおきてを破る者は、徹底的に村八分的な制裁を受けたこと。
● 「菜の花の沖」の中で司馬は、高田屋嘉兵衛が幼時に若者宿で執拗ないじめに遭い、その中からの 脱出を通じて創造的なエネルギーを開花させていったことを書いている。
● 司馬はそのようないじめの体質は、近代化後の帝国陸軍の中に強く残り、戦後の官僚組織や体育会系の中にも潜在することも指摘している。
つまり、村落共同体の範囲での身分差や能力差は、若衆宿(若者宿と同義)に所属する限りでの平等主義の中では問題とされず、(おそらく唯一の従属関係の基準は「先輩後輩」関係であったろう)、たとえば高田屋嘉兵衛のごとく異能を持つ者はかえって執拗ないじめの対象とされてしまうということなのであろう。この稿の筆者は、村落共同体にこのような「いじめ文化」が育った理由は、農耕を中心とする閉じられた系としての村落では、複雑な階層を持つ指揮命令系統や、能力ある者による新技術の開発などは殆ど不要で、集団に所属する者全員による同調圧力の生成こそが主要な課題であったからだと考えている。司馬遼太郎によれば、東アジアでも中国大陸や朝鮮半島にはこのような文化の種子はなく、日本にもしこの文化が伝播したものであるとすれば、南方島嶼からではないかとされている。が、南洋にこのようないじめ文化、あるいは少なくとも若衆宿の例があるか否かは示されていない。
ともあれ、近代化後の日本は、下士官兵のレベルでは、村落共同体における若衆宿の伝統と文化をそのまま引き継ぎ、その基盤の上に概ね初等教育を施された人員を徴兵し、そして士官以上のレベルでは儒教的武士文化を背景に持ち、中等レベルの普通教育と専門的な技術教育を施された人材を以て帝国陸軍を建設した。陸軍は一見すると複雑な階層構造と指揮命令系統をもつ近代組織のようであったが、基礎的な歩兵の単位(内務班)まで分解すると、そこに存在するのは「星の数よりメシの数」の「先輩後輩」秩序であり、命令一下全員が同じ行動をとる「同調圧力文化」ではなかったかと思えるのである。
最後に現代の学校における「いじめ」の理由について、上記との関係で述べたい。今日の教育制度における「偏差値文化」は、一見すると日本中の同学年者を同一の基準で序列化するものだから、上記の平等主義と相容れない様に見える。が、基準が全国同一であるという点において実は平等主義と通底している。そこには真の意味での「個性」という概念がない。そしてなんらかの顕著な「個性」を持つ者こそが、今日も学校という若衆宿で「いじめ」の対象とされているのではないか。ⅰ 司馬遼太郎没後10年シンポジウム 「街道をゆく」の世界【基調講演】山折哲雄氏
http://www.asahi.com/sympo/060512/02.html2023年4月28日
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若衆宿
本欄で幾度か、思春期の子供達の教育制度に触れてきた。この稿の筆者の主張は、要約して言えば、学校という一つの秩序に青少年の全生活を預けるべきではないということにある。中学校、高校はすべからく知識と教養を授ける府とし、スポーツ、音楽等現在部活動に委ねられている分野は、地域の倶楽部制にして、少年少女が家庭も含めて複数の教育の場面を持つようにすべきだというのがその内容である。理由は、少年少女が流動し変化する社会の中で、自立した個人として育ってほしいからである。
そうした視野を持ちつつ、前近代のとくにムラ社会において今日の学校の役割を果たしていた、若衆(若者)宿、娘宿について、今月は取り上げていきたい。まず二つの前提を記しておく。江戸時代の後半くらいを考えてみると、村落共同体と武士社会では、青少年教育のあり方が根本的に違っていた。武士は幼少期から儒教の素読などを学んだ後、藩校など近代の学校に近い教育機関で文武を学び、成長すると概ね身分秩序の中で、自分の家にふさわしい勤務に就いた。(次、三男は養子の口探しに励んだ)一方、村社会では、寺子屋というようなものはあったが、現在の中等教育の年代に入ると、昼間は男女ともに農作業周りの労働に従事した。彼ら彼女らにとって中等教育らしいものは夜間、これから紹介する、若衆宿や娘宿で行われる夜語りの中で授けられた。(武士階級でみられた若衆宿の例は、薩摩郷中などきわめて稀だという)
もう一つ、大切なことは男女間の道徳も、武士と庶民では全く異なっていたことである。武士の世界では、「男女七歳にして席を同じうせず」という儒教道徳が徹底していて、とくに嫁入り前の女性は、正月や冠婚葬祭は別として、年中家にこもりきりで、他家や他身分の男性とは話すことはおろか顔さえ見せなかった。一方ムラの世界では、男女の関係は比較的おおらかで、若衆宿と娘宿の交流が、夜這いに発展したり、ムラの若い衆の初体験を、村内のやや年増の未亡人が司ったりした。つまり、教育と性道徳二つにおいて、武士と庶民では全く違う世界が並行していたということなのだ。
さて、若衆宿では昼の仕事と夕食を終えた若者達が集まり、時として酒を飲み、彼らだけの自治の世界の中で、先輩から世間知や農事を学んだ。『しごきがある。共同労働がある。山火事が起きたら火を消す。津波、洪水が起きれば救難の仕事に当たる。村が襲われれば、それをはねのける軍事的な役割も果たす。~中略~若者宿のおきてを破る者は、徹底的に村八分的な制裁を受ける・・・』ⅰ一方娘宿はというと『特定の民家や納屋を娘宿とし、夕食をすませると娘たちが集合して、縄をなったり、草履を作ったり、裁縫などの夜なべ仕事をした。~中略~宿を提供した家の主人や主婦が宿親として娘をしつけ、配偶者選びの助言者にもなった。~中略~さらに、ヨバイといい、若者が夜分娘宿に行き、意中の娘の寝床に入り、もし気持ちが受け入れられれば婚姻関係が成立するというものもあった。この場合のヨバイとは、俗に言われるような、男性が女性の寝床に忍び込んで情交を結ぶというものとは違った。若者は自分の親にヨバイの相手を相談し、宿親や娘も承知したオープンな配偶者探しの手段であった。しかし、全く夜遊び的なヨバイもなくはなかったらしい。』ⅱ
これら庶民の夜の中等教育の世界は、明治になって近代国家建設と共に、「貞操観念がない」とされ、上から統制される青年団と処女会(!)に再編された。青年団は立派な兵士を生むための機関に、処女会は銃後の女性を育てる機関となっていったのだ。ⅰ 司馬遼太郎没後10年シンポジウム 「街道をゆく」の世界【基調講演】山折哲雄氏
http://www.asahi.com/sympo/060512/02.html
ⅱ 青年団の活動で消滅-若者の男女交際の場「娘宿」三重県環境生活部文化振興課県史編さん班
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=3992023年3月31日
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リベラリズムの行方
20世紀世界は三回、全人類を巻き込んだ争闘を経験した。第一次、第二次世界大戦と米ソ冷戦がそれである。そしてその三回とも、勝者はリベラリズムを標榜する国々であった。この稿の筆者は、第一次、第二次世界大戦の頃にはまだ生を享けていなかったが、1989年11月のベルリンの壁崩壊とそれに伴う冷戦終結、自由主義陣営の勝利の瞬間は、鮮明に記憶している。東欧の多くの国々の市民が、社会主義専制政治の軛から解放されたその瞬間の、心からの歓喜に満ちた顔を忘れることは出来ない。そのとき、この稿の筆者は、20世紀の三回の試練を経て、自由主義と専制主義の優劣についての問題は、「ケリがついた」のだと思った。経済成長の途上で一時的な開発独裁などの政体を必要とする途上国があっても、経済発展が一定の水準に到達すれば、市民の側からの自然な欲求によって、自由主義的な政体に移行するだろうと予想したのである。
ところが、21世紀に入って、勝利したはずのリベラリズムは、またも試練にさらされている。
2019年、スウェーデンの調査機関VーDemは、世界の民主主義国・地域が87カ国であるのに対し、非民主主義国は92カ国となり、18年ぶりに非民主主義国が多数派になったという報告を発表したi。また、ロシア、中国を筆頭とする専制諸国ばかりではなく、トランプの米国、フランスやドイツの右派勢力など、リベラリズムの本家のはずの欧米諸国においても、自由を揺るがしかねない勢力が台頭し政権に近づいており、もはや「リベラル」は、少数派の代名詞に堕ちた感もある。20世紀の三度の試練を通じて確立されたはずの国際的なコモンセンス、たとえば武力による領土拡張の禁止、言論の自由と人権の保護などのリベラリズム的な価値について、21世紀の専制諸国はどう考えているのだろうか。ロシアは、第二次世界大戦後、旧ポーランド領の約半分をロシア領土とし、その代償に旧ドイツ領の東部のほぼ同面積を新生ポーランドに与えた。つまりロシアに関する限り、第二次世界大戦後の国境線の変更は、2700万人と言われる独ソ戦犠牲者の代償として当然の分け前であり、「武力による領土拡張の禁止」などという国際法的な原則など薬にしたくもないであろう。中国はと言えば、世界において近代社会が始まってからこの方、リベラリズムを標榜する欧米や日本に侵略を受けたことはあっても、リベラリズム的価値の恩恵を受けたことはない。リベラリズムの徳目なんぞは、中国を侵略した国々の、国内的な言い訳に過ぎず、そんな徳目を「コモンセンス」として自らの国作りの役に立てる筋合いはないと考えているのではないだろうか。つまり、20世紀の三度の試練を経て確立されたはずの、国際的なコモンセンスなるものは、残念ながらまだ「世界の常識」にはなり得ていないと考えざるを得ない。
さらに、第一次世界大戦後のワイマール共和国が合法的な選挙によってナチズムを生んだのと似た様な現象が、21世紀の米、英、仏、独などのリベラリズム先進諸国において起きている事実をわれわれはどのように考えるべきだろうか。この稿の筆者の考えは、悲観的であり且つ楽観的である。
すなわち、21世紀、リベラリズムに四度目の試練が来ることはあるかもしれない。だが最終的には「リベラルが勝つ」。その理由は、リベラリズム的な価値が国家や民族に基礎を置くものではなく、個人に基礎を置くものだからである。四度目の試練の後、世界はさらに近代国民国家を超えた枠組みを求めることであろう。そのときにこそ、1989年のあの日の人々の笑顔が、国家や民族の歓喜ではなく、市民個人の歓喜の姿であったことを思いたいのだ。
i 東洋経済オンライン 薬師寺克行 2021.06.30
2023年3月2日
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慶喜恭順
近世、近代日本史には三つの大きな「謎」がある。第一は、明智光秀は何故織田信長に叛いたのか。第二は、浅野内匠頭は何故吉良上野介に刃傷に及んだのか。そして第三は、徳川慶喜は何故軍事的に優位だったのに薩長(西軍)にひたすら恭順したのか。
今月は、このうち第三の謎について書きたい。
まず初めに、徳川慶喜という人物が幕府制度や将軍職にあまり魅力を感じておらず、天皇を頂点とする国家の下で、徳川氏の行政能力、経済力、軍事力などを背景に中枢の地位を得たいと思っていたであろうことを書く。これについては慶喜の生家である水戸徳川家の遠祖光圀が私淑していた明からの亡命学者朱舜水の影響を指摘したい。朱舜水は、清に滅ぼされた明の復興運動に幾度も挫折した後、日本に亡命してきたのだが、日本のありようを見て何故か感激してしまった。日本の歴史には放伐革命による王朝交代がなく、萬世一系の皇室というものが継続していたからである。そのことはとくに王朝の交代によって前王朝の遺臣となってしまった朱舜水の胸を打ち、「日本こそが中華の国だ」とすら思わせた。彼の思想的影響が水戸藩の代々に及び、当初は徳川幕府に忠節を尽くすことが、ひいては天皇(君)に対する忠義であるという見解であったものが、次第に後期水戸学になるにつれて、徳川幕府を脇に置いて、天皇に対する直接の忠義という考え方が出てきた。慶喜はまさにそのような思想的環境の中で育てられた。
次に、慶喜が一方の主人公であった、十三代将軍家定の後継争い。この一橋派(慶喜を担ぐ)と南紀派(紀州藩主徳川慶福を担ぐ)の争いは、単なる幕府内の宮廷闘争ではなく、薩摩、越前など有力な列藩藩主と協議をしながら政治を進めるのか、あるいは従来通り譜代専制の幕閣が政治の主導権を握るのかという考え方のちがいがあったのである。つまり慶喜には、十四代将軍家茂(慶福のこと)の急死によってやむをえず征夷大将軍に就任する遙か前から、列藩協議による政治運営の構想があったことになる。そして孝明天皇の信頼が厚かった慶喜にとっては、この構想の中で自らが中心となって政治を進めていくことはけっして夢ではなかった。
ところが、わずか半年後その孝明天皇までが急死してしまう(暗殺説もある)。やむをえず慶喜は、幕府と言うよりは徳川氏の軍事力を刷新強化し、政治の主導権を持ち続けようとする。これに最も脅威を感じたのが薩摩藩である。何故ならば、徳川主導であれ、後の明治政府であれ、新しく天皇の下で発足する国民国家日本には、早急に解決しなければならない課題があったからである。
それは「廃藩置県」による中央集権化であった。そして慶喜主導で廃藩置県が為されると言うことは、おそらく薩摩の滅亡を意味する。長州、そして薩摩という軍事力で徳川氏と対抗しうる大藩は、武装を解除され、(実際に初期明治政府における徳川氏がそうであったように)完全に権力の中枢から排除されるだろう。ここから薩摩の一部藩士による挑発と武力倒幕という陰謀が開始されたのだとこの稿の筆者は考えている。その後大政奉還と倒幕の偽勅が同日に起きる話から、小御所会議のクーデター、薩摩の挑発、鳥羽伏見の戦いまでの経緯はよく知られるとおりである。慶喜はまんまと天皇の下での国家運営の主導権を「偽錦旗」を掲げる薩長に奪われてしまった。幕府というものに魅力を感じていなかった慶喜にとって、そのことは痛恨事ではあったが、それでも朝敵となって武力抵抗を続けるという選択肢はなかった。慶喜は恭順するしかなかったのである。
2022年12月12日
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伯夷叔斉
紀元前1000年頃(といわれているが、定かではない)中国全体を支配していた殷(最近の考古学の成果から実在したことが確認されている)王朝は終焉を迎えようとしていた。第30代の王は紂王と言って、たいへんな暴君であったと言われるが、とりあえず本稿の主題ではない。
その殷の中に孤竹国という小国があって、国を治める伯に、伯夷、仲馮、叔斉という三人の兄弟がいた。その当時の中国に、長子相続という習俗があったのかどうかは、これもよく分からないのだが、孤竹国の人々は、伯夷が後継者となるだろうと思っていたらしい。ところが、伯の愛情は末子の叔斉に注がれ、叔斉を後継とするようにと遺言して亡くなった。伯夷は、自分が孤竹国に居たのでは叔斉が後継者としてやりにくかろうと思って、国を去った。一方、叔斉の方も、伯夷を差し置いて後継者となることをよしとせず、自分も伯夷の後を追って孤竹国を出て行ってしまった。困った孤竹国の人々は、仕方がないので真ん中の仲馮を立てて後継者としたというお話し。父の遺言を尊重した伯夷は「孝」という徳目を重んじ、兄を差し置いて君主に立つことを肯わなかった叔斉は「長幼の序」という徳目を守ったと言うことになる。
後世漢の時代の歴史家司馬遷が、この二人の伝説を「史記」の冒頭に掲げたのは、有名な話。さらに、本朝の徳川光圀(水戸黄門、事情があって兄を差し置いて水戸徳川家の後継者となった)が、自分のコンプレックスに重ね合わせて、伯夷叔斉の伝説に感応且つ感激してしまい、それが「史記」を真似て「大日本史」を編纂する端緒をつくったというのもよく知られている。
さて、伯夷叔斉の話には後日談がある。孤竹国を出た二人は、流浪の末に周国の西伯昌が仁に厚い名君だという評判を聞いて、仕えようと周に向かった。しかし残念ながら彼らが周の首都に着いたときには昌はすでに亡くなっており、昌の後を継いだ子の発(後の武王)が、諸侯の支持を得て、殷の紂王に対する放伐革命に決起する直前であった。そこで伯夷叔斉の兄弟は、西伯発の馬の前に立ち塞がり、紂王にどのような暴虐や非行があっても臣下たるものは、これに背いて謀反を行ってはならず、あくまで君主を諫めることに徹するべきだと説得する。徳目としては「忠」を貫くことをよしとしたということになる。が、当時の事情を言えば、世論はすでに紂王の上にはなく、諸侯はこぞって西伯を立てて殷王朝を倒そうという勢いにあった。中国の歴史の中では、前王朝の天命が尽きれば、これに代わる者の上に天命が下って命が革まる(革命)ことになっており、発にしてみれば、伯夷叔斉の言は、タイミングを失した無用の止め立てとうつったかもしれない。
発は諸侯を率いて殷王朝を倒し、周王朝の武王として中華に君臨することになった。伯夷叔斉の兄弟は、周(西伯の支配域ではなく、中華一帯)の粟米を食うことを潔しとせず、(比喩として周に仕えなかったということではなく、ほんとうに志の汚れた周で耕作されたものは口に入れないことにしたらしい)、首陽山というところにこもって、自生する蕨を採取して暮らしたが、やがて餓死した。
彼らが餓死する直前に作ったとされる「采薇の歌」(蕨をとる歌)が残っている。紙数の関係で全て採録できないが、「暴ヲ以テ暴ニ易ヘソノ非ヲ知ラズ」と痛烈に武王の革命を批判している。
司馬遷は、史記の冒頭にこの伯夷叔斉の物語を掲げ、「天道是か非か」、つまり中華民族が尊ぶ徳目を墨守したこの兄弟を置き去りにして、殷から周へと流れゆく歴史の大河(天道)が、果たして是であったのか、否であったのかを問い、以て自著「史記」全体のメインテーマとしている。
2022年11月1日
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先輩後輩
2021年8月24日夜、東京メトロ南北線白金高輪駅のエスカレーターで、通勤帰りの会社員が、尾行してきた男に、突然振り向きざまに硫酸を掛けられるという事件が起きた。犯人は被害者の大学サークルの先輩。それほど親しくはなかったようだが、要するところ被害者が「後輩のくせに先輩である自分にタメ口で話した」ことが犯行の動機らしい。犯人は、はじめ自分の学年年齢を明かさず後輩達と交わってフラットに話していたが、途中から「自分は先輩だ」と言い出し、後輩達が口のききかたを改めなかったために、深甚な恨みを抱いたのだとか。
先輩はエライ。先輩がどんな人でも、後輩は先輩をたてなければならない、なんていう文化は、かなりの程度に日本特有のものではないかと思う。先輩というのは、あるコミュニティに時間的に以前から、長くいる人のことであるから、王侯貴族がエライ、お代官様がエライ、社長がエライ、党官僚がエライ等というのとはちょっと違うような気がする。
戦前の帝国陸軍には「星の数より飯の数」ということわざがあって、古兵殿とかいう、長い期間軍隊の飯を食べてきた兵員は、制度上の分隊長、小隊長よりも隠然たる力を持っていた。帝国海軍では軍令承行令という規則が公式にあって、全海軍の兵科士官の序列が一律に決まっていた。軍令承行令は戦闘中の軍艦で艦長などが戦死した際に、次に指揮権を受け継ぐ者の順序を予め決めておくものであったが、この序列は、任官順、つまり先輩が後輩よりエライように出来ていた。(任官順が同じ時は兵学校の成績順)。これは実際に戦争が起きてみるとかなり不都合なもので、とくにハワイ攻撃の不徹底やミッドウェーの敗北で評価の低い南雲忠一提督が、なぜ帝国海軍虎の子の機動艦隊(第一航空艦隊)を率い、航空戦に識見が深く空母機動部隊生みの親であった小沢治三郎提督がなぜ水上部隊(南遣艦隊)の指揮官に回ったのかというような、戦争の帰趨を決めるような将官人事についても、「先輩が後輩よりエライ」原理が適用されてしまった。因みに米国の軍隊の人事は、もっと柔軟で、第一次世界大戦中、米陸軍の佐官級の若手の秀才ダグラス・マッカーサーが、あっという間に代将、少将と「戦時中だけの」将官に抜擢されたことはよく知られている。
ついでに言えば、ある組織の中で先輩でも後輩でもない「同期」という存在は、組織の構成員がストレスを感じないで済む希少で大切な仲間であり、多少の出世の度合いが違っても一生「タメ口」で語り合う「同期の桜」となるのである。
こうした日本の先輩後輩秩序はなぜ生じたのか。いくつか理由はあろうが、先ずは儒教による「長幼の序」の影響。兄弟に才能の優劣があっても、先に生まれてきた方が必ず家を継ぐというルール(承行令)によって、家督相続争いを避けようとした。農民の世界では、日々の農耕には才能の優劣はあまり影響しないので、年齢秩序が優先された。いまは後輩である若者も、いずれ年をとれば先輩になれるので、「先輩が後輩よりエライ」ムラ秩序は、理不尽なようで、意外と公平と言えないこともなかった。江戸時代の職人や商人の世界でも、駆け出し初めの十年くらいは先輩の言うことをご無理ごもっともと耐えて聞くことが「修行」であり、才能の発揮はあくまでも年季が明けた後のことであった。こうして見ると、先輩後輩秩序とは、労働市場に流動性がない社会を円滑に運営するための知恵であったことが分かる。日本の労働市場が、流動化の時代を迎えようとしている現代には、働き方改革と共に「先輩が後輩よりエライ」という秩序も見直すべきではないだろうか。
2022年10月1日
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民主主義その2
先月に続き民主主義に関するキーワードから「民主主義とは何か」を考える。
「トーリーとホイッグ」
近代市民革命前後の英国において、王権神授説を唱える国王に随身する保守貴族勢力がトーリー、議会に拠って政治を行おうとする開明的貴族と大商人達の勢力がホイッグである。前者がアリストクラシー、後者がデモクラシーの系譜を継いだ。
英国では、一時国王を倒して議会が主権を把握し、議会が任命した「護民卿」という者が統治を行ったが、うまく行かず、後に国王が復帰した。トーリーは議会の存在を認めて議員を送り、ホイッグは国王の統治を認めて、議会を通じ国王統治の抑制を図った。
アメリカ独立戦争にもトーリーとホイッグは存在した。トーリーは英国国王派なので概ね植民地維持を唱え、ホイッグは民主派なので「代表なければ課税なし」を唱えて英国からの独立を志向した。「自由な政治と独裁政治」
イギリス、アメリカ、フランスなどで近代市民革命が一応成功すると、行政を担う統治者から、相対的に自立した議会という存在が重要視されるようになった。議会は人民の選挙によって選ばれるので、統治者の恣意をチェックすることが出来、場合によっては革命などの手段によらず合法的に統治者を解任できるようにもなった。そうした、選挙権の行使によって人民が統治者からの自由(主には統治者の意にそまない言動によって拘束を受けたりすることからの自由)を獲得することを以て民主主義の勝利と呼んだのである。一方で、こうした選挙による抑制を受けない統治者を独裁者、独裁者が行う政治を独裁政治「ディクテーターシップ」と呼ぶようになった。「ポピュリズム」「衆愚政治」
ところが近代後期に入ると、選挙民たちが政治的な熱狂によって独裁者を選挙してしまうという例が発生するようになる。典型的な例はナチスドイツのヒトラー(合法的な選挙によって政権を獲得した)だが、最近もアメリカの前大統領トランプなどは、一種の衆愚政治をみずから演出し、大衆を扇動して大統領に選出された例として記憶に新しい。「プロレタリア独裁とブルジョア独裁」
マルキシズムの世界では、民主主義の判定基準を「どのような制度によって政治が行われているか」ではなく、「どのような勢力が実権を握っているか」に求める。近代社会の英国議会は実質貴族と大商人が実権を握っていたから「ブルジョア独裁」であり、革命後のロシアは工場労働者が実権を握っていたから「プロレタリア独裁」なのでより民主主義に近いというような見方をする。昨今の中国も共産党の独裁政治によって人民が食べられ、外国から侵略を受けない強い国になったのだから、それが民主主義であるという見方をしているようだ。が、現代中国のような独裁政治は、明治初期日本の大久保利通や少し前のインドネシアのスハルト等が行った開発独裁という政治形態の一種であり、一時的に有効であっても、長い目で見れば民主主義の常態とは言えない。結論として、民主主義とは、統治者の権力行使に対して、それを抑制する政治のメカニズムがあり、人民による選挙を通じて抑制のメカニズムが適切に行使される状態であると思う。愚かな民が愚かな政治家を選ぶことがあったとしても上記の抑制機構を維持できれば、いずれは回復できる。
2022年9月1日
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民主主義その1
今月は、「民主主義とは何か」ということを書こうとしている。
世に「我田引水」という言葉があるが、この世の大半の国々は自らが民主主義であることを標榜している。本来民主主義とは相容れないはずの君主制国家、たとえばイギリス、オランダ、ベルギー、スウェーデン、ノルウェーそして日本やタイなども皆、自らの政体は民主主義であると主張し、さらに言えば、自らは民主主義の卸元であるとさえ思っている。一方で、○○民主主義人民共和国の類の共産主義諸国も、あるいは独裁者を戴く全体主義諸国も、「自分が民主主義の極みだ」と主張している。そこでいくつかのキーワードを探りながら、「民主主義とは何か」ということを探っていきたい。
「デモクラティアとアリストクラティア」
デモクラシー(英語)の語源は、ギリシア語のデモクラティアである。この語は人民(デモス)と権力(クラティア)を併せた造語である。これの反対語は貴族(アリスト)と権力(クラティア)を併せたアリストクラティアである。まあ、市民政治と貴族政治とでも訳せばわかりが良い。都市国家の広場に市民権を持つ市民(男性のしかも全部ではなく資格制限があるのが常態であった)が集まって政治を議し投票で物事を決めるのがデモクラティアで、最初から政治を取り仕切る資格のある家族(貴族)が決まっていて、それら貴族の合議で決め事をするのがアリストクラティアであった。「ビューロクラシー」
前記造語の発展型として「ビューロクラシー」(英語、「官僚政治」のこと)という言葉もある。ビューロは官僚、役人の意味があり、一定の規範を持つ官僚集団が政治を取り仕切る形態を「ビューロクラシー」と呼んだ。たとえば、古代東アジアの科挙を基盤とした官僚政治などもデモクラシーの反対語として扱われる場合がある。さらに官僚政治の発展型として20世紀社会主義諸国の「ノーメンクラツーラ」(党官僚)による政治も、実態は党官僚という名の「赤い貴族」の政治に近く、デモクラシーの反対語としても良いかもしれない。「代議制民主主義と直接民主主義」
デモスクラティアは、はじめ都市国家の広場における民会が決定機関であったので、やりかたとしては直接民主主義に近かった。が、だんだん市民権を持つものの範囲が拡充されると、民会や直接投票ではものごとを決める手段として不便になってきたので、議会乃至は類似の代議機関をつくって、「市民の意志」を反映させるようになった。これを以て代議制民主主義と呼ぶ。たしかに、議会は市民権を持つものの選挙によって成り立つので、貴族政治や官僚政治に比べると「市民の意志」には近い判断ができるように見える。が、常設の議会は時間が経つとそれ自身が特権(あるいは利権)集団に堕ちる場合があり、必ずしも民主主義の守り神とは言えなくなってしまう場合もある。なお、社会科の授業風に言えば、今日世界の民主主義の大半が代議制で運用されているが、国家レベルではスイスがかろうじて民会、直接民主主義の残滓を保っているらしい。また、各国憲法に内蔵されている国民投票のメカニズムも、やや直接民主主義の要素が代議制の中に残っている証拠とも考えられる。
上記は、民主主義の種類や発展の形態に関する、「おさらい」であって、まだ「民主主義とは何か」の考察に行き着かない。そこで来月号も引き続き本題を続けることにする。
2022年8月1日