お役立ち情報
COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
絞り込み:
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徳川家康
戦国時代における各地の大名達の興亡劇は、日本歴史の中でももっとも物語性に富んでいて、時代小説の半分以上は、この時期を題材にしていると言っても過言ではない。そして戦国期のことを少し詳しく調べてみると、日本中が一つの大きなトーナメント戦を展開していて、あたかも甲子園のごとく地区予選、甲子園の一回戦、準々決勝、準決勝、決勝と進んで、最後に徳川家康という人が優勝したというようにも読めるのである。この家康という人は、しかも地区予選でも殆どシード権を持っていなくて(豊臣秀吉ほどではないが)、地区予選の最下層に近いところから勝ち上がってきた。そして各々の時期で、家康は自分の生きがいや振る舞いを微妙に変化させてきたように見える。
まず、竹千代期。(誕生1543年-)彼の実家の松平氏は、西三河の土豪中の有力者ではあったが、松平家自体が二十数家もあって、その中には竹千代の実家にとってかわる力がある家もあった。つまり周辺の国人衆(後に服属の度が強まって「三河以来の旗本」になる)とそれほど変わらぬ力しかなかった。東三河の戸田氏に騙されて織田家に売り飛ばされたり、捕虜交換で今川氏の人質になったり、軽い扱いを受けたのも松平家の実力がその程度であったことを示している。幼時の竹千代はその現実を受け入れるしかなかった。
松平元康期。(元服1555年-)駿府の人質であったこの時期、彼は太原雪斎に見いだされ、後の築山殿を妻として、今川氏の縁戚に取り立てられ、今川の次世代の有力な部将候補となったものとこの稿の筆者はみる。今川軍団にもこの時期「武士の専業化」の萌芽が見られⅰ、元康にとっては、何か自分の新しい未来が開けたような気持ちだったのではないか。
清須同盟期。1560年桶狭間の戦いの直後、松平元康は駿府に帰らず、今川氏の「捨てた」岡崎城に入城して独立。西三河の国衆を束ね、やがて敵対していた織田信長と同盟を締結する。
岡崎入城の決断は、今川軍団内での自己の未来を捨て、西三河の国衆の武力を背景とする小領主としての自立を選ぶもので、相当の迷いがあったと想像される。それでも、元康が岡崎の国衆を選んだのは、義元の死によって今川軍団における自分の未来が見えなくなったと感じたこと、あるいは義元の後継者氏真との人間関係に齟齬があったことも想像される。三河の国人側から見れば元康の独立は、今川氏支配による収奪にあえいでいた彼らの現実からの解放を意味し、歓迎された。元康は、今川義元の偏奇「元」を捨てて家康と名告り、やがて織田氏の仲介で朝廷から三河守の官位に叙せられ、徳川家康と称するようになる。家康は東三河をも勢力圏に入れて戦国大名の最小単位である「国」の領主となる(いよいよ甲子園に出てきた)。その後は織田信長の天下統一事業に駆使されるようになるが、家康は誠実に同盟を守り一度も信長を裏切らなかった。
武田対戦期。(浜松移転1570年-)左記は通常清須同盟期に含まれるが、筆者は三河と言う小国の領主から、遠江を得て東海地域の(弱小だが)戦国大名となったと言う意味で、トーナメント戦の重要な一階層を進んだと見る。この時期の家康は織田氏に服属しつつも名目上は同盟者として、強敵武田氏の西への侵攻を阻止する役割を全うした。1572年三方原では破滅に近い敗北を、1575年長篠・設楽原では織田氏との連合の下で決定的な大勝利を経験した。だが、その後1579年長男信康を舅信長の命で切腹させるという大事件が起きる。
ここからについては、次号を参照されたい。ⅰ 元康だけでなく、たとえば桶狭間で戦死した井伊直盛などもこうした国人から切り離されて
今川氏に近侍する部将の候補だったのではないかと、この稿の筆者は考えている。2023年12月27日
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艦名(続)
本誌2016年3月号の本欄で、大日本帝国海軍の軍艦名を取り上げた。命名の規則として、戦艦は日本の律令制下の国の名、重巡洋艦は山、軽巡洋艦は川、一等駆逐艦は気象、二等駆逐艦は草木や花から名付けられたこと。おしなべて陸軍の装備命名が「勇ましい」基準であるのに対して、海軍のそれは優美であって、平和的であったことなどを述べた。
さて、今号では、それを継承した現代の海上自衛隊の護衛艦の名前について取り上げたい。
以下に述べるとおり、現在の護衛艦は、殆ど旧帝国海軍の軍艦名を踏襲している。ほとんどの艦に旧海軍の「先代」がいる。が、一つ大きな違いがあるとすれば、すべて平仮名で表記されていて、漢字ではないというところであろうか。
周知の通り、海上自衛隊は、旧海軍が一度壊滅した後、米国から支給された小型艦艇で再建を始め、次第に大型艦を国内で建造するようになった経緯がある。そこで、まず、一番隻数が多い小型のDD(destroyer = 駆逐艦)クラスの名前から紹介を始めたい。「むらさめ」「はるさめ」「ゆうだち」「きりさめ」「いかづち」「あけぼの」「ありあけ」「たかなみ」「おおなみ」「まきなみ」「さざなみ」「すずなみ」「あきづき」「てるづき」・・・そのほか多数。概ね旧海軍の一等駆逐艦の命名を踏襲している。
次に紹介するのは、ごく最近出てきたFFM(多機能フリゲート艦)という艦種で、こちらは、旧海軍の軽巡洋艦名をそのまま踏襲している。「もがみ」「くまの」「のしろ」「みくま」がすでに就役しているか、進水して艤装中である。艦の形状は、ステルス性に配慮してやや丸みを帯びた巨大な構造物が艦の側面からそのまま上部に向かって構築されている不思議なものだが、省人員で多様な用途に対応可能の由で、今後この種のフリゲート艦が多数建造されるらしい。川の名前の護衛艦は他にもあって、「あぶくま」「せんだい」「おおよど」「じんつう」「ちくま」「とね」(先代はいずれも第二次大戦期の軽巡洋艦としてよく知られている。とくに「大淀」は戦時中の一時期、連合艦隊旗艦を務めたこともある)はDE(destroyer escort)という艦種で、主に沿岸近海の防御の任に当たっている。
山の名前は、というと、艦種名称はDDG(ミサイル護衛艦)で一般にはイージス艦として知られている。日本海に展開して大陸から打ち込まれてくるミサイルを迎撃する役割(そればかりではないが)を担っている。「きりしま」「こんごう」の先代は帝国海軍の高速戦艦であったし、「あたご」「あしがら」「まや」「はぐろ」「みょうこう」「ちょうかい」の先代はいずれも連合艦隊第二艦隊の代表的な重巡洋艦であった。
そして国の名前は、DDH(ヘリコプター搭載護衛艦)。「かが」「いずも」「いせ」「ひゅうが」が現役であるが、先代との比較で少し詳しく述べると、先代の「加賀」はワシントン軍縮条約の結果廃艦になるはずであった戦艦を空母に改造したもの、先代の「伊勢」「日向」は航空戦艦と言って、戦艦の後部甲板を改造して航空機を搭載したもの。いずれも「艦種を空母に改造」がキーワードである。
現代の海上自衛隊がかねて航空母艦を望んでいながら諸般の事情から許されなかったものが、今般ヘリコプター空母「かが」「いずも」の「改造」によって航空母艦をはじめて手に入れたのも、背後に命名者の願いを見ることが出来る、というのはいささかうがち過ぎだろうか。また、「いずも」の先代「出雲」は日露戦争時代の装甲巡洋艦であるが、第二次大戦期には第三艦隊旗艦として長く上海に駐留していたため、現代の中国人から「帝国主義的命名で印象が悪い」とか言われている。2023年11月30日
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ベクトル量とスカラー量
教育における偏差値と個性という話である。
とかく、日本人はなんにでも序列をつけたがる。教育適齢期にある児童生徒の親の多くは、一定の年齢層のすべての日本人の中で、自らの子女が何番目に位置するかを知りたがる。
全国一律の「学力」の序列と、全国一律の進学先の学校の序列があって、「自らの子女の学力がこれくらいだから、ふさわしい学校はここくらい」という関係が明らかであることに何故か安心する。そして子女の学力とふさわしい学校の関係が覆らないことが「公平・平等」と考える。
そうした親にとって、序列の指標は一般的な「学力」であって、「国語、算数、理科、社会、(英語)」のどの科目が何点かではなくて、「総合得点」乃至「総合点の偏差値」が問題である。(後で詳しく述べるが、体育とか芸術とかいう科目は通常「学力」に含まれない。何故かというと体育や芸術は天分によるところが多く、努力によって高得点をあげることが困難であるからである)。全国一律の共通テストのようなもので、生徒が配点はともあれ総合点を何点か取ると、その総合点でだいたい行ける大学のメニューが決まっていて、生徒はメニューの中から、まあ文系とか理系くらいの大まかな選択肢で進学先を選択するのである。そこには、○○大学の△△学部に行って××教授の講義を聴きたいなどというシャープな選択肢はない。
これまで述べてきた考え方は、数学的に言えば、「学力」の量をスカラー量(大きさのみを持って方向を持たない量、物理量で言えばたとえば重さのようなもの)と理解している。
ところが、「学力」の値はベクトル量(大きさと方向の両方を持つ量、物理量で言えば力とか位置)だとする考え方もある。下の絵を見てほしい。この絵では、青い太線で描いた矢印が、太郎の「学力」であると考える。太郎の学力の方向と、各科目の矢印の方向は若干ずれているので、太郎の各科目の得点は、太郎の矢印の端から各科目に直角におろした直線の端(緑の点線とオレンジの矢印の交点)の値=cos(科目)太郎となる。
つまり太郎の各科目の得点とは太郎の学力の「影」なのであって、その値は太郎の学力の方向によって微妙にかわってくる。たとえば太郎の学力の方向が「体育」や「芸術」などの方向に著しく近似していると、これらの科目を除外した太郎の学力は不当に低く評価されることになりかねない。
「学力」をスカラー量と考えるか、ベクトル量と考えるかは、教育というものの本質を理解する上できわめて重要である。前者を取れば偏差値序列主義の教育が横行する。後者を取れば太郎の学力の方向は、「太郎の個性」であると考え、「個性を伸ばす教育」が可能となる。その代わり太郎の学力の絶対値は容易には測れないので、太郎と隣の次郎や花子との学力比較は困難となる。2023年10月31日
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国侍
本欄では、しばしば、武士というものの起源について取り上げている。
すなわち、平安時代中頃に、東国の荒蕪地を開拓した農民たちが武装するようになり、自らが開拓した農地を他から脅かされぬように、京の貴族や寺社に(形式的に)寄進してわずかな年貢と引き換えに保証(安堵)を求めたこと、そして平安時代末期には領地安堵の見返りが年貢だけではなく、彼らの貴族や寺社への武力のサービスとなり、それが武士の起源となったことを述べた。
今月は、その後のことについて述べたい。まず源平合戦期をつうじて、貴族たちの過剰なサービス要求に困惑した新興の(とくに東国の)武士たちは、貴族から自立して、自分たちの自治による領地安堵システムを構築した。これが鎌倉幕府である。鎌倉幕府は単に東国圏における領地訴訟を裁いただけではなく、全国の荘園に警察権を有する地頭というものを派遣して、荘園領主から一定のサービス料を徴収して治安の維持にあたった。つまり、鎌倉時代を通じて、全国には荘園領主(貴族や寺社)と地頭(武士)という二つの存在が並立して、ヘゲモニーを競ったのである。このヘゲモニー争いは承久の変から南北朝の争いを経て武士の側に凱歌が上がり、室町期には次第に在地の地頭たちが貴族や寺社の領地を押領して支配するようになる。これがいわゆる国侍(くにざむらい)といわれる存在の始まりである。
さて、私たちが歴史小説などでよく知っている戦国大名が覇権を競った時代と、上記の国侍という存在が全国に広まった時代とでは約百年から百五十年くらいの差がある。はじめは、在地の地頭を束ねる守護(室町時代、足利幕府が国ごとの単位で任命する名門の武士で、多くは京に在住したまま傘下の地頭たちを統括した)というものがいて、これが国単位の武力の触れ頭(ふれがしら)となった。たとえば斯波、畠山、赤松、大内、細川、山名などの諸氏がそれである。これら守護の内、自らが統括する地域に在住した者の中には、そのまま戦国大名に移行できた者もいる。たとえば薩摩の島津氏、長門の大内氏、駿河の今川氏、甲斐の武田氏などがそれである。一方で、守護が無力で没落してしまった国では、有力な国侍の中から地域を束ねる者が出てきた。あるいは、守護大名の家臣や守護代などの下位の武士たちが守護に取って代わる例もみられた。前者の国侍出身の典型が安芸の毛利氏、三河の松平氏。後者の守護代型の例が、尾張の織田氏、越前の朝倉氏、越後の長尾氏などである。
いずれにしても、これら戦国大名たちは、在地の地頭出身の国侍を束ねて、武力として動員し、近隣の他の大名と競わなければならなかった。武力動員の見返りは、領地の安堵と(戦勝して領地が広がった場合には)あらたな領地であった。これら戦国大名同士の争いは、いわば甲子園のトーナメント戦のようなものであり、われわれがよく知っている、島津、大友、毛利、長宗我部、三好、朝倉、浅井、斉藤、織田、松平、今川、長尾、武田、後北条、佐竹、伊達、最上などの争いは、戦国期後半に、多くの戦国大名が滅びて次第に織田による天下統一が実現していく物語なのである。
が、これら戦国トーナメント戦の前に、戦国大名が国侍をまとめるための戦いというものがあったことも(地味であるが)忘れてはならない。小田原の後北条氏による関東の統一、甲斐の武田氏による信濃の侵略と統一などの歴史を読むと、小さな地頭クラスの国侍たちが、いかに有力な戦国大名に抵抗し、自らの小領地を守ろうとしていたかがよくわかる。2023年9月29日
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因縁
英国近現代史における二組の親子の因縁話である。
19世紀後半、英国政治のライバルと言えば、保守党(トーリー党)のベンジャミン・ディズレリーと自由党(ホイッグ党)のウィリアム・グラッドストンであった。前者が地主貴族層に依拠しながらも貧困層への社会政策に目を向け、一方で多くの植民地を持つ大英帝国の建設に功績があったのに対して、後者は勃興しつつあった商工事業者に依拠して、「平和・緊縮財政・改革」を掲げて、ビクトリア朝期をつうじた、リベラリズム(政治的自由主義、平等、自由貿易、地方自治など)の方向への潮流を主導した。さて、保守党と自由党は、各々党内に突出した叛乱分子のグループを抱えていた。
保守党の叛乱分子のリーダーは、大貴族マールバラ公爵の次男ランドルフ・チャーチル。貴族階級の出身ながら、より貧困層に向けた社会政策を標榜し、ディズレリーの没後は「プリムローズ・リーグ」(ディズレリーの好んだ桜草の花にちなんで命名したという)という大衆団体を組織して、保守党の選挙において下層階級からの集票に貢献した。
自由党には、バーミンガム市長出身のジョゼフ・チェンバレン。こちらもかなり社会主義的な政策を掲げつつ、「自由党全国連盟」という議会外の大衆団体を組織して、自由党の選挙に貢献した。
二人は、共に議会内、党内では少数派であったが、大衆組織を握っていた故に、党内では無視することの出来ない存在となっていたのである。
やがてチェンバレンは、自由党の党首グラッドストンが、アイルランド自治法案にかまけて自己の立案した地方自治政策に無関心であったことなどを契機に自由党を離れ、国内的にはリベラルだが対外的には帝国主義者であったホイッグ貴族のハーティントン侯爵とともに、保守党陣営に身を移した。一方その頃ランドルフ・チャーチルは、保守党内閣の蔵相の地位にまで栄達を遂げていたが、強すぎる自己過信故に、保守党貴族層の嫌忌する軍事費の削減予算を組んで、反感を買い内閣を追われた。そのときの首相ソールズベリー侯爵は、チャーチルを内閣から追った後任をチェンバレン/ハーティントン派に求めた。つまりこの自由党を離党した派閥(アイルランド自治に反対であったので、「自由統一派」と呼ばれる)が手許に存在する限り、チャーチルは不要であったのだ。
チャーチルは、その後脳に深刻な病を抱えて、政治家として立ち直ることが出来なかった。チェンバレンは、その後保守党と自由統一派との連立政権で植民地大臣などをつとめ、社会政策よりも帝国主義に寄った立ち位置での業績が大きい。
さて、二人の子孫の因縁話である。チェンバレンには政治家となった二人の息子がいた。兄のオースティンは外相としてロカルノ条約を締結し、ノーベル平和賞を授けられた。弟のネヴィル・チェンバレンは、1930年代の英国首相。ヒトラーとの妥協で有名なミュンヘン会談の当事者である。このときチェンバレンの対独宥和政策を同じ保守党内で厳しく批判した者が、誰あろうランドルフ・チャーチルの長男ウィンストン・チャーチルであった。チェンバレンの宥和政策は結局失敗し、ナチスのポーランド侵攻とともに英国は1939年9月対独宣戦を布告し第二次世界大戦が始まる。が、翌年5月ノルウェーと西部戦線での敗退の責任を問われてチェンバレンが首相を辞任すると、あらたな挙国一致内閣で首相の印綬を帯びたのは、ウィンストン・チャーチルであった、と言うお話。2023年8月31日
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この道一筋
【設問】 以下の文章を読み、末尾の問いに答えなさい。
○○島は、海に面した小さな島です。穏やかな水道をへだてて、本土の港まで連絡船が運航しており、英吉さんは連絡船の船長として、長く島の人々の暮らしを支えてきました。
英吉さん夫婦は○○島に住み、島の人々とも大の仲良しです。島が高齢化する中で、まだまだ元気で働いています。「平成の大合併」で島は本土の港町の一部となりました。それに伴って選挙区の区割りが変わったせいなのか、突然これまで島民の念願だった、島と本土の港町をつなぐ架橋の話が具体化し、あれよあれよという間に「ふるさと創成」だかの公共事業の一環として、数年後には連絡橋が完成する運びとなりました。さて、連絡橋ができれば当然連絡船は廃止です。
では、英吉さん夫婦は、これからどう暮らしていけばよいのでしょうか?あなたの意見を回答欄に200字程度で書きなさい。
<太郎の回答>
英吉さんは、若い頃船員になってから、船の仕事しかしたことがない。この道一筋の人である。
定年までまだ間があるというなら、どこか外の土地で船の仕事を見つけるしか彼の働く道はない。
連絡船の会社は、橋ができると解散するそうだから、それまでによその土地で船の仕事を見つけるのは、英吉さん本人と会社の責任である。
<桃子の回答>
これまで島の人々は、英吉さんの連絡船にひとかたならぬ世話になった。連絡船がなければ島の人々の暮らしは成り立たなかった。英吉さんは定年まで町役場で再雇用して、子供達に海のことでも教える仕事をしてもらうのがよいのではないか。
合併で町が広くなってしまい、役場も本土側に行ってしまったので、色々難しい問題はあるだろうが、島民には、英吉さん夫婦がこれからも島に住めるように考える責任がある。
<次郎の回答>
そもそも、令和の世の中で、「この道一筋」を貫いてきた英吉さんの生き方が問題なのではないか。
これまでも、これからも日本はどんどん変化していく。英吉さんだって、連絡船の船長をやっている間に、たとえば無線技師とか、漁船のメンテナンスとか、何か趣味や副業でもよいから次の仕事につながるような、別の何かを準備しなければいけなかったのではないか。橋ができるまで、短いがまだ時間がある。英吉さん夫婦が、島に住み続けたければ、急いで第二の人生の仕事を準備するほかはない。
<この稿の筆者の論評>
英吉さん夫婦の問題は、他人ごとではない。たとえば、現在人手不足で話題の路線バスの運転手だって、あと十年もすれば、自動運行の無人バスが実用化されて、仕事がなくなってしまう。それを知っているから、路線バス運転手の応募者が少ないのだ。都会ではロボットに宿泊サービスや介護までやらそうとしている。少子化が止まらず、移民も受け入れないこの国では、機械に頼って人間の仕事を少なくしようとする流れは止まらない。「この道一筋」で仕事への「こだわり」や「夢」をもっても、当のその仕事がなくなってしまうかもしれない。「この道幾筋」が正解なのだ。2023年8月1日
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岐阜の嫁入り
以前本欄で「名古屋の嫁入り」と題して、昭和50年代の名古屋市民の結婚に対する考え方、派手な披露宴と「しーっかりと大きい」引き出物、嫁入り道具の移動が重要な意味を持つこと、「在所」の婿自慢等を書いた。今月はその続編として、名古屋の隣、岐阜の町で実際にあった披露宴の事例について、この稿の筆者が経験したことを書く。時代は同じく昭和50年代、筆者が二十代半ば頃の話である。
H君とKさんは共にこの稿の筆者が大学で所属していた放送のクラブの後輩である。二人は、クラブ内恋愛で、ちょっとしたドラマを経て卒業一年後くらいにぶじ結婚の運びとなった。H君の出身は石川県、たしか能登半島の奥の方ではなかったかと思う。Kさんは岐阜の町中の高校を出て東京の大学に進学した。K家ではおそらくK嬢の結婚に備えてそれなりの資金を貯蓄していたのであろう。K嬢をH君に嫁がせることに異議はないが、披露宴が能登半島の奥で開催されて、岐阜の人々に見せられないのは困ると考えたのであろう。両家協議の結果披露宴は岐阜市内の有名な料亭で開催、H家の親戚一同は、当日朝能登をバスで出発し、岐阜市に繰り込むことで話がついた。(後から考えると、このバスの車中ですでに祝杯を挙げる親戚もいたのだと思う)
さて、披露宴の司会者はと言うと、当時名古屋に在住していたこの稿の筆者が務めることとなり、週末に二度ほど、会場となる岐阜の料亭に通って、万端打ち合わせることとなった。まずちょっとした小競り合いがあったのは、会場側の司会マニュアルという台本のようなものがあり、披露宴冒頭「本日は席次万端整いませず、ご不満の向きもあろうかとは存じますが、めでたい席に免じて・・」と言えと書いてある。それを省略しようとしたところ、会場側が目を三角にして「この台詞だけは、必ず言っていただかないと困ります」と言うのだ。新婦K嬢の口添えもあって渋々了承したものの、心中では「なんでこんなアリバイ工作みたいな台詞を・・」と不満であった。
司会者冒頭の辞は結局「新郎新婦が所属しておりました放送研究会のアナウンス読本に“暖かくなる花曇りの午後”という言葉がございます。そんな言葉がふさわしい今日昭和○年○月○日、ただいまより、H家、K家結婚披露の宴を開催致します。本日は席次・・」というものになり、続いて媒酌人による新郎新婦紹介、主賓の祝辞、乾杯の挨拶と滞りなく進み、けっこうたくさんの来賓の挨拶が新郎側、新婦側交互に行われて、新婦一時退席となる。その前後だったか、新婦の日本舞踊のお師匠さんがひとさしお祝いの舞いを舞われ、その答礼に新婦がまた舞うという儀式があった。
さて圧巻は、新婦お色直し入場である。この料亭では新婦が歩いて入場するのではなく、モクモクとドライアイスの白煙がたなびく中を、お色直しを終えた新婦が舞台中央にせり上がってくる仕掛け。そのせり上がりの間舞台の袖には左右三人ずつの料亭従業員がゴム仕掛けの紙の鳩を持って控えており、司会者が小声で「鳩!」と合図すると、鳩が一斉に新婦を祝して舞台に羽ばたくのであった。ケーキカットの後は、能登と岐阜の余興合戦。手許の台本ではとっくに披露宴は終わっているはずなのに、とくに能登勢からは次々と追加余興の申し出があり、H君のご近所の皆様の「オハコ」を全部歌っていただかないと「このままでは、能登に帰せない」と幹事役が仰るものだから、もうどうとでもなれと次々と放歌高吟を紹介し、ようやく新郎新婦の両親へのお礼言上、両家代表挨拶、お開きとなったのは開始後3時間20分。筆者の披露宴司会最長時間記録であった。2023年6月30日
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ニンニク
古来我が国では鱗茎を食用とする臭いの強いネギ属の植物を総称して蒜(ひる)と呼んだ。蒜には大蒜、小蒜、野蒜・・などの種類があって、ニンニクはその中の一種である、大蒜にあたるという。日本の中世、仏教では、ニンニクの強精作用が煩悩を刺激して修行に害を為すということから、ニラ、ネギ等とともに五辛の一つとして僧の食用が禁じられた。大蒜のことをニンニクと呼んだ語源は、あらゆる苦難や屈辱に耐え忍ぶという意味の「忍辱」という仏教用語から来ているとのこと。が、実際には、つらい修行の最中に、精力を補完するために密かにニンニクを口にして、栄養不足をしのいだ修行僧もいたのだとか。
ニンニクの原産地は中央アジアらしい。紀元前三千年以上昔、既にエジプトで栽培されていたことが分かっている。現存する最古の医学書「エーベルス・パピルス」には薬としても記載されている。ⅰ 我が国でも8世紀頃にはニンニクには、大陸から伝播していたとみられる。ニンニクには、効能と臭いという二つの面があるが、1709年(宝永7年)に刊行された貝原益軒編「大和本草」巻之五 草之一 菜蔬類では、「悪臭甚だしくとも効能が多いので人家に欠くべからざるもの」とされている。
ニンニクの効能について、以下「にんにくのことがなんでもわかる」と称する「にんにく大辞典」ⅱ というサイトを引用しながら述べることにする。このサイトによれば、ニンニクには血圧低下、風邪の治療、精力向上、食欲増進、疲労回復、不眠や焦燥の解消などのほかに、癌、心筋梗塞、動脈硬化、高血圧、脚気、腰痛、神経痛、糖尿病、冷え性、痔疾、水虫等々の諸病の予防や抑制の効果があるのだとか。もうこうなってしまえば、ニンニクは万病に効きますと言っているようなものである。
そのニンニクの効能の内、殺菌効果の中心を成すものは、アリシンという成分である。が、アリシンは、ニンニクそのものに含まれているわけではない。1951年にスイスのノーベル賞科学者・ストールとシーベックが、細胞内に蓄えられている無臭のアリインという成分と維管束にある酵素アリイナーゼが反応することで、はじめてにおい成分アリシンができることを発見した。要するところ、ニンニクをおろし金でおろしたり、包丁で刻んだりして、さらにそれが酸素に触れると、アリインやアリイナーゼが反応して、アリシンが出来るという訳なのだ。このアリシンは、ニンニクが傷つけられることによって外部に対して防御機能を発揮する殺菌効果の素であるのと同時に、ニンニクのあの強烈な臭みの素でもある。お茶の類や青汁に含まれるカテキンはこの臭みを消す効果がある。またアリシンは、蛋白質と結合しやすいため、牛乳、チーズ、ヨーグルトなどの乳製品も消臭効果がある。
さて、ニンニクと言えばその臭み故に、魔物を退散させる効果があるとされてきた。西洋社会では、先ず吸血鬼ドラキュラがもっとも忌むものがニンニクであり、ドラキュラ退散を願う者は、軒端にニンニクをつるして置いたとされている。さらに、西洋の子供達は、なくし物をしたとき「ニンニク、ニンニク」というまじないを唱えるのだそうだ。これは失せ物を隠していた魔女が、ニンニクの臭みで退散し失せ物を返してくれるからだとか。我が国では、「古事記」に登場する日本武尊が、信濃峠だかで悪霊に襲われて、噛んでいた蒜を投げつけて退散させたという言い伝えもある。
ニンニクは西洋では、特に肉料理の味を調えるのに用いられてきた。我が国でははじめ薬として用いられてきたが、江戸も後期に進むにつれて猪、鹿などを鍋で煮て食べる肉食習慣が普及し、ニンニクを食材に用いる様になってきた由である。ⅰ Wikipedea にんにく
ⅱ https://www.229dic.com/2023年5月31日
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若衆宿(続)
前号に続き、若衆宿の話である。先月は、若衆宿、娘宿が江戸時代から続いた村落共同体の青少年の夜学制度であり、儒教道徳に基づく武士階級の青少年教育とは異なるコンセプトで並行して存在したこと、その内実は農事を中心とした職業訓練と共に、若者に自治の中で世間知を身につけさせるようなものであったこと、その世間知の中には性教育や夜這いの要素などもあったことなどを述べた。今号では、これらの制度の負の側面、とくに男性の若衆宿における「いじめ」の問題について述べたい。前号でも引用した朝日新聞主催司馬遼太郎没後10年シンポジウム「街道をゆく」の世界の中で、山折哲雄が司馬遼太郎の思索として次のようなことを述べている。ⅰ
● 若者宿で生活する間は、若者の間に、絶対の平等主義が貫かれていた。
一方でその平等主義、若者宿のおきてを破る者は、徹底的に村八分的な制裁を受けたこと。
● 「菜の花の沖」の中で司馬は、高田屋嘉兵衛が幼時に若者宿で執拗ないじめに遭い、その中からの 脱出を通じて創造的なエネルギーを開花させていったことを書いている。
● 司馬はそのようないじめの体質は、近代化後の帝国陸軍の中に強く残り、戦後の官僚組織や体育会系の中にも潜在することも指摘している。
つまり、村落共同体の範囲での身分差や能力差は、若衆宿(若者宿と同義)に所属する限りでの平等主義の中では問題とされず、(おそらく唯一の従属関係の基準は「先輩後輩」関係であったろう)、たとえば高田屋嘉兵衛のごとく異能を持つ者はかえって執拗ないじめの対象とされてしまうということなのであろう。この稿の筆者は、村落共同体にこのような「いじめ文化」が育った理由は、農耕を中心とする閉じられた系としての村落では、複雑な階層を持つ指揮命令系統や、能力ある者による新技術の開発などは殆ど不要で、集団に所属する者全員による同調圧力の生成こそが主要な課題であったからだと考えている。司馬遼太郎によれば、東アジアでも中国大陸や朝鮮半島にはこのような文化の種子はなく、日本にもしこの文化が伝播したものであるとすれば、南方島嶼からではないかとされている。が、南洋にこのようないじめ文化、あるいは少なくとも若衆宿の例があるか否かは示されていない。
ともあれ、近代化後の日本は、下士官兵のレベルでは、村落共同体における若衆宿の伝統と文化をそのまま引き継ぎ、その基盤の上に概ね初等教育を施された人員を徴兵し、そして士官以上のレベルでは儒教的武士文化を背景に持ち、中等レベルの普通教育と専門的な技術教育を施された人材を以て帝国陸軍を建設した。陸軍は一見すると複雑な階層構造と指揮命令系統をもつ近代組織のようであったが、基礎的な歩兵の単位(内務班)まで分解すると、そこに存在するのは「星の数よりメシの数」の「先輩後輩」秩序であり、命令一下全員が同じ行動をとる「同調圧力文化」ではなかったかと思えるのである。
最後に現代の学校における「いじめ」の理由について、上記との関係で述べたい。今日の教育制度における「偏差値文化」は、一見すると日本中の同学年者を同一の基準で序列化するものだから、上記の平等主義と相容れない様に見える。が、基準が全国同一であるという点において実は平等主義と通底している。そこには真の意味での「個性」という概念がない。そしてなんらかの顕著な「個性」を持つ者こそが、今日も学校という若衆宿で「いじめ」の対象とされているのではないか。ⅰ 司馬遼太郎没後10年シンポジウム 「街道をゆく」の世界【基調講演】山折哲雄氏
http://www.asahi.com/sympo/060512/02.html2023年4月28日
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若衆宿
本欄で幾度か、思春期の子供達の教育制度に触れてきた。この稿の筆者の主張は、要約して言えば、学校という一つの秩序に青少年の全生活を預けるべきではないということにある。中学校、高校はすべからく知識と教養を授ける府とし、スポーツ、音楽等現在部活動に委ねられている分野は、地域の倶楽部制にして、少年少女が家庭も含めて複数の教育の場面を持つようにすべきだというのがその内容である。理由は、少年少女が流動し変化する社会の中で、自立した個人として育ってほしいからである。
そうした視野を持ちつつ、前近代のとくにムラ社会において今日の学校の役割を果たしていた、若衆(若者)宿、娘宿について、今月は取り上げていきたい。まず二つの前提を記しておく。江戸時代の後半くらいを考えてみると、村落共同体と武士社会では、青少年教育のあり方が根本的に違っていた。武士は幼少期から儒教の素読などを学んだ後、藩校など近代の学校に近い教育機関で文武を学び、成長すると概ね身分秩序の中で、自分の家にふさわしい勤務に就いた。(次、三男は養子の口探しに励んだ)一方、村社会では、寺子屋というようなものはあったが、現在の中等教育の年代に入ると、昼間は男女ともに農作業周りの労働に従事した。彼ら彼女らにとって中等教育らしいものは夜間、これから紹介する、若衆宿や娘宿で行われる夜語りの中で授けられた。(武士階級でみられた若衆宿の例は、薩摩郷中などきわめて稀だという)
もう一つ、大切なことは男女間の道徳も、武士と庶民では全く異なっていたことである。武士の世界では、「男女七歳にして席を同じうせず」という儒教道徳が徹底していて、とくに嫁入り前の女性は、正月や冠婚葬祭は別として、年中家にこもりきりで、他家や他身分の男性とは話すことはおろか顔さえ見せなかった。一方ムラの世界では、男女の関係は比較的おおらかで、若衆宿と娘宿の交流が、夜這いに発展したり、ムラの若い衆の初体験を、村内のやや年増の未亡人が司ったりした。つまり、教育と性道徳二つにおいて、武士と庶民では全く違う世界が並行していたということなのだ。
さて、若衆宿では昼の仕事と夕食を終えた若者達が集まり、時として酒を飲み、彼らだけの自治の世界の中で、先輩から世間知や農事を学んだ。『しごきがある。共同労働がある。山火事が起きたら火を消す。津波、洪水が起きれば救難の仕事に当たる。村が襲われれば、それをはねのける軍事的な役割も果たす。~中略~若者宿のおきてを破る者は、徹底的に村八分的な制裁を受ける・・・』ⅰ一方娘宿はというと『特定の民家や納屋を娘宿とし、夕食をすませると娘たちが集合して、縄をなったり、草履を作ったり、裁縫などの夜なべ仕事をした。~中略~宿を提供した家の主人や主婦が宿親として娘をしつけ、配偶者選びの助言者にもなった。~中略~さらに、ヨバイといい、若者が夜分娘宿に行き、意中の娘の寝床に入り、もし気持ちが受け入れられれば婚姻関係が成立するというものもあった。この場合のヨバイとは、俗に言われるような、男性が女性の寝床に忍び込んで情交を結ぶというものとは違った。若者は自分の親にヨバイの相手を相談し、宿親や娘も承知したオープンな配偶者探しの手段であった。しかし、全く夜遊び的なヨバイもなくはなかったらしい。』ⅱ
これら庶民の夜の中等教育の世界は、明治になって近代国家建設と共に、「貞操観念がない」とされ、上から統制される青年団と処女会(!)に再編された。青年団は立派な兵士を生むための機関に、処女会は銃後の女性を育てる機関となっていったのだ。ⅰ 司馬遼太郎没後10年シンポジウム 「街道をゆく」の世界【基調講演】山折哲雄氏
http://www.asahi.com/sympo/060512/02.html
ⅱ 青年団の活動で消滅-若者の男女交際の場「娘宿」三重県環境生活部文化振興課県史編さん班
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=3992023年3月31日
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リベラリズムの行方
20世紀世界は三回、全人類を巻き込んだ争闘を経験した。第一次、第二次世界大戦と米ソ冷戦がそれである。そしてその三回とも、勝者はリベラリズムを標榜する国々であった。この稿の筆者は、第一次、第二次世界大戦の頃にはまだ生を享けていなかったが、1989年11月のベルリンの壁崩壊とそれに伴う冷戦終結、自由主義陣営の勝利の瞬間は、鮮明に記憶している。東欧の多くの国々の市民が、社会主義専制政治の軛から解放されたその瞬間の、心からの歓喜に満ちた顔を忘れることは出来ない。そのとき、この稿の筆者は、20世紀の三回の試練を経て、自由主義と専制主義の優劣についての問題は、「ケリがついた」のだと思った。経済成長の途上で一時的な開発独裁などの政体を必要とする途上国があっても、経済発展が一定の水準に到達すれば、市民の側からの自然な欲求によって、自由主義的な政体に移行するだろうと予想したのである。
ところが、21世紀に入って、勝利したはずのリベラリズムは、またも試練にさらされている。
2019年、スウェーデンの調査機関VーDemは、世界の民主主義国・地域が87カ国であるのに対し、非民主主義国は92カ国となり、18年ぶりに非民主主義国が多数派になったという報告を発表したi。また、ロシア、中国を筆頭とする専制諸国ばかりではなく、トランプの米国、フランスやドイツの右派勢力など、リベラリズムの本家のはずの欧米諸国においても、自由を揺るがしかねない勢力が台頭し政権に近づいており、もはや「リベラル」は、少数派の代名詞に堕ちた感もある。20世紀の三度の試練を通じて確立されたはずの国際的なコモンセンス、たとえば武力による領土拡張の禁止、言論の自由と人権の保護などのリベラリズム的な価値について、21世紀の専制諸国はどう考えているのだろうか。ロシアは、第二次世界大戦後、旧ポーランド領の約半分をロシア領土とし、その代償に旧ドイツ領の東部のほぼ同面積を新生ポーランドに与えた。つまりロシアに関する限り、第二次世界大戦後の国境線の変更は、2700万人と言われる独ソ戦犠牲者の代償として当然の分け前であり、「武力による領土拡張の禁止」などという国際法的な原則など薬にしたくもないであろう。中国はと言えば、世界において近代社会が始まってからこの方、リベラリズムを標榜する欧米や日本に侵略を受けたことはあっても、リベラリズム的価値の恩恵を受けたことはない。リベラリズムの徳目なんぞは、中国を侵略した国々の、国内的な言い訳に過ぎず、そんな徳目を「コモンセンス」として自らの国作りの役に立てる筋合いはないと考えているのではないだろうか。つまり、20世紀の三度の試練を経て確立されたはずの、国際的なコモンセンスなるものは、残念ながらまだ「世界の常識」にはなり得ていないと考えざるを得ない。
さらに、第一次世界大戦後のワイマール共和国が合法的な選挙によってナチズムを生んだのと似た様な現象が、21世紀の米、英、仏、独などのリベラリズム先進諸国において起きている事実をわれわれはどのように考えるべきだろうか。この稿の筆者の考えは、悲観的であり且つ楽観的である。
すなわち、21世紀、リベラリズムに四度目の試練が来ることはあるかもしれない。だが最終的には「リベラルが勝つ」。その理由は、リベラリズム的な価値が国家や民族に基礎を置くものではなく、個人に基礎を置くものだからである。四度目の試練の後、世界はさらに近代国民国家を超えた枠組みを求めることであろう。そのときにこそ、1989年のあの日の人々の笑顔が、国家や民族の歓喜ではなく、市民個人の歓喜の姿であったことを思いたいのだ。
i 東洋経済オンライン 薬師寺克行 2021.06.30
2023年3月2日
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慶喜恭順
近世、近代日本史には三つの大きな「謎」がある。第一は、明智光秀は何故織田信長に叛いたのか。第二は、浅野内匠頭は何故吉良上野介に刃傷に及んだのか。そして第三は、徳川慶喜は何故軍事的に優位だったのに薩長(西軍)にひたすら恭順したのか。
今月は、このうち第三の謎について書きたい。
まず初めに、徳川慶喜という人物が幕府制度や将軍職にあまり魅力を感じておらず、天皇を頂点とする国家の下で、徳川氏の行政能力、経済力、軍事力などを背景に中枢の地位を得たいと思っていたであろうことを書く。これについては慶喜の生家である水戸徳川家の遠祖光圀が私淑していた明からの亡命学者朱舜水の影響を指摘したい。朱舜水は、清に滅ぼされた明の復興運動に幾度も挫折した後、日本に亡命してきたのだが、日本のありようを見て何故か感激してしまった。日本の歴史には放伐革命による王朝交代がなく、萬世一系の皇室というものが継続していたからである。そのことはとくに王朝の交代によって前王朝の遺臣となってしまった朱舜水の胸を打ち、「日本こそが中華の国だ」とすら思わせた。彼の思想的影響が水戸藩の代々に及び、当初は徳川幕府に忠節を尽くすことが、ひいては天皇(君)に対する忠義であるという見解であったものが、次第に後期水戸学になるにつれて、徳川幕府を脇に置いて、天皇に対する直接の忠義という考え方が出てきた。慶喜はまさにそのような思想的環境の中で育てられた。
次に、慶喜が一方の主人公であった、十三代将軍家定の後継争い。この一橋派(慶喜を担ぐ)と南紀派(紀州藩主徳川慶福を担ぐ)の争いは、単なる幕府内の宮廷闘争ではなく、薩摩、越前など有力な列藩藩主と協議をしながら政治を進めるのか、あるいは従来通り譜代専制の幕閣が政治の主導権を握るのかという考え方のちがいがあったのである。つまり慶喜には、十四代将軍家茂(慶福のこと)の急死によってやむをえず征夷大将軍に就任する遙か前から、列藩協議による政治運営の構想があったことになる。そして孝明天皇の信頼が厚かった慶喜にとっては、この構想の中で自らが中心となって政治を進めていくことはけっして夢ではなかった。
ところが、わずか半年後その孝明天皇までが急死してしまう(暗殺説もある)。やむをえず慶喜は、幕府と言うよりは徳川氏の軍事力を刷新強化し、政治の主導権を持ち続けようとする。これに最も脅威を感じたのが薩摩藩である。何故ならば、徳川主導であれ、後の明治政府であれ、新しく天皇の下で発足する国民国家日本には、早急に解決しなければならない課題があったからである。
それは「廃藩置県」による中央集権化であった。そして慶喜主導で廃藩置県が為されると言うことは、おそらく薩摩の滅亡を意味する。長州、そして薩摩という軍事力で徳川氏と対抗しうる大藩は、武装を解除され、(実際に初期明治政府における徳川氏がそうであったように)完全に権力の中枢から排除されるだろう。ここから薩摩の一部藩士による挑発と武力倒幕という陰謀が開始されたのだとこの稿の筆者は考えている。その後大政奉還と倒幕の偽勅が同日に起きる話から、小御所会議のクーデター、薩摩の挑発、鳥羽伏見の戦いまでの経緯はよく知られるとおりである。慶喜はまんまと天皇の下での国家運営の主導権を「偽錦旗」を掲げる薩長に奪われてしまった。幕府というものに魅力を感じていなかった慶喜にとって、そのことは痛恨事ではあったが、それでも朝敵となって武力抵抗を続けるという選択肢はなかった。慶喜は恭順するしかなかったのである。
2022年12月12日