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今月の言葉

2023年9月29日

国侍

 本欄では、しばしば、武士というものの起源について取り上げている。
 すなわち、平安時代中頃に、東国の荒蕪地を開拓した農民たちが武装するようになり、自らが開拓した農地を他から脅かされぬように、京の貴族や寺社に(形式的に)寄進してわずかな年貢と引き換えに保証(安堵)を求めたこと、そして平安時代末期には領地安堵の見返りが年貢だけではなく、彼らの貴族や寺社への武力のサービスとなり、それが武士の起源となったことを述べた。
 今月は、その後のことについて述べたい。まず源平合戦期をつうじて、貴族たちの過剰なサービス要求に困惑した新興の(とくに東国の)武士たちは、貴族から自立して、自分たちの自治による領地安堵システムを構築した。これが鎌倉幕府である。鎌倉幕府は単に東国圏における領地訴訟を裁いただけではなく、全国の荘園に警察権を有する地頭というものを派遣して、荘園領主から一定のサービス料を徴収して治安の維持にあたった。つまり、鎌倉時代を通じて、全国には荘園領主(貴族や寺社)と地頭(武士)という二つの存在が並立して、ヘゲモニーを競ったのである。このヘゲモニー争いは承久の変から南北朝の争いを経て武士の側に凱歌が上がり、室町期には次第に在地の地頭たちが貴族や寺社の領地を押領して支配するようになる。これがいわゆる国侍(くにざむらい)といわれる存在の始まりである。
 さて、私たちが歴史小説などでよく知っている戦国大名が覇権を競った時代と、上記の国侍という存在が全国に広まった時代とでは約百年から百五十年くらいの差がある。はじめは、在地の地頭を束ねる守護(室町時代、足利幕府が国ごとの単位で任命する名門の武士で、多くは京に在住したまま傘下の地頭たちを統括した)というものがいて、これが国単位の武力の触れ頭(ふれがしら)となった。たとえば斯波、畠山、赤松、大内、細川、山名などの諸氏がそれである。これら守護の内、自らが統括する地域に在住した者の中には、そのまま戦国大名に移行できた者もいる。たとえば薩摩の島津氏、長門の大内氏、駿河の今川氏、甲斐の武田氏などがそれである。一方で、守護が無力で没落してしまった国では、有力な国侍の中から地域を束ねる者が出てきた。あるいは、守護大名の家臣や守護代などの下位の武士たちが守護に取って代わる例もみられた。前者の国侍出身の典型が安芸の毛利氏、三河の松平氏。後者の守護代型の例が、尾張の織田氏、越前の朝倉氏、越後の長尾氏などである。
 いずれにしても、これら戦国大名たちは、在地の地頭出身の国侍を束ねて、武力として動員し、近隣の他の大名と競わなければならなかった。武力動員の見返りは、領地の安堵と(戦勝して領地が広がった場合には)あらたな領地であった。これら戦国大名同士の争いは、いわば甲子園のトーナメント戦のようなものであり、われわれがよく知っている、島津、大友、毛利、長宗我部、三好、朝倉、浅井、斉藤、織田、松平、今川、長尾、武田、後北条、佐竹、伊達、最上などの争いは、戦国期後半に、多くの戦国大名が滅びて次第に織田による天下統一が実現していく物語なのである。
 が、これら戦国トーナメント戦の前に、戦国大名が国侍をまとめるための戦いというものがあったことも(地味であるが)忘れてはならない。小田原の後北条氏による関東の統一、甲斐の武田氏による信濃の侵略と統一などの歴史を読むと、小さな地頭クラスの国侍たちが、いかに有力な戦国大名に抵抗し、自らの小領地を守ろうとしていたかがよくわかる。