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TOP今月の言葉札幌の葬い 2024年03月

今月の言葉

2024年3月29日

札幌の葬い

 この数年の間に本誌で何度か、名古屋の嫁入り、岐阜の嫁入りなど昭和期の中部地方の婚礼について書いた。この稿の筆者が、人生の中で住んだことのある地方都市は、中部地方の名古屋と北海道の札幌である。そこで今月号では、昭和期の札幌の葬祭習俗について書くことにしたい。
 まず、一般論としてだが、昭和期の日本の田舎では、どちらかというと婚礼は「家」の行事、葬礼は「村」の行事という傾向があった。すなわち結婚披露の主催者は新郎新婦の父親であり、案内状も「この度両家の婚儀相整い、ささやかながら披露の宴を催したく、ご多忙の所恐縮ながらご来駕給わりたく・・」といった文面が通常であった。一方葬礼はというと、故人が誰であっても「家」の者は遺族であるから、故人を悼んで呆然としていることが多く、周囲の地域の者が、葬式の世話やら通夜の炊き出しやらを手伝うのが通常であった。よほどの分限者になれば、それでも通夜の門前には大きな○○家と墨書した提灯か何かを掲げたものだが、あまり金のない家であれば、玄関先は「忌中」の貼り紙で済まし、家の中では近所のおばさん達が立ち働き、座敷ではこれも近所の者が故人を悼むにしてはやや無遠慮な酒盛りを行い、遺族は奥の一間の棺の前で、おとなしくめそめそしているというのが平均的な姿であっただろう。
 さて、北海道である。北海道はその昔、開拓民の土地であり、開拓民とは、一度本土の故郷と親族を捨てて海を越え、北辺の地に入植した者である。なので、故人の遺族なる者は、同じ屋根の下に住む数名以内であって、隣近所とか離れた土地から「親戚のおじさんおばさん」などが駆けつけてくることは余り想定されていない。そこで、葬祭自体が村落の行事として扱われ、実行委員会主催の形式で行われる。実行委員長は、村落の長老とか、町内会長とかが就任する。昭和期でも第二次世界大戦後になってくると、札幌の市中ではいわゆる地域コミュニティのつながりが次第に薄くなってくる傾向にあり、その場合、実行委員長は括弧付きの「ご近所の有力者」ということで、地元の市議や道議といった政治家に頼んでなってもらう様な場合も多くあった。
 葬儀の会計(香典を集めて、寺または式場や坊さんの支払いに充てる)も実行委員会単位で行うので、赤字にするわけにはいかない。よって葬儀費用は本土の葬儀よりも質素なことが多い。この稿の筆者は、十年ほど前にこの札幌形式の葬儀に出席して驚いたのだが、葬儀式場が昼間だけで二ラウンドまわるように運営されていた。私の出席したのは早いほうの会であったので、なんと朝9時開式、10時30分にはもう出棺という次第であった。
 もう一つ、この実行委員会形式とつながりがあるのかないのかよくわからないのだが、地元紙の地方版(北海道新聞であれば札幌市東部版とか○○支局版とかそんな頁)にやたらと「普通の人」の死亡記事が掲載されるのである。本土の新聞では、訃報が(広告費を払わずに)掲載されるのは、芸能人、スポーツ選手、政治家等の「有名人」だけであり、一方通称「黒枠広告」というものは高価有料と決まっているから、そんなものを掲載するのはだいたい元企業の経営者とか「公人」のすることであり、結局の所、新聞には「普通の人」の死亡記事は有料でも、無料でも載らないのである。
 が、札幌ではだいたい数行くらいずつ、ご近所の普通人の死亡記事が、毎日紙面一頁の半分以上は掲載される。まあ、昔の北海道では人口密度が低かったので、死亡記事でも読まなければ、ほかに情報を知る手段がなく、葬儀に駆けつけることができなかったのかもしれないが。