「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓ふ心の悲しさよ」
菊田一夫の名作、NHKラジオドラマ「君の名は」冒頭の有名なフレーズである。
と、言っても、放送開始は1952年(昭和27年)であるから、すくなくとも現在70歳くらいから上の方でないと、上記の台詞をナマで聴いたのを覚えておられることはないだろう。
このドラマでは、忘れようとしても忘れられない人、というのがテーマであって、忘れることより忘れられないことの方に重点がある。世の中は戦後復興に向かい、国はまだ若く元気であった。封建的な家族制度のくびきにつながれた女性の主人公と、形式上は不倫なのだが純愛を貫く男性の主人公。真知子と春樹は、ともに新しい国、社会、個人の自由の象徴であった。まあ、要するに国民は、エネルギーに満ちて健康であったのだ。
そこには、高齢化、認知症、忘れたくなくても忘れてしまう問題というのはまだなかった。
その次に来るのは、高度成長。「都合の悪いことは、飲んで忘れてしまおう」、という無責任時代。「ちょいと一杯のつもりで飲んで、いつの間にやら、はしご酒」「わかっちゃいるけどやめられねぇ」は、後に都知事となった青島幸男の作詞で植木等が歌ったご存知「スーダラ節」。この時代の日本は、プロジェクトX、「ものづくり日本」の時代でもあった。が、一方で公害垂れ流し、川も空も真っ黒け、手抜き工事もやり放題、後先を顧みず原子力発電に邁進する「行け行けドンドン」の産業優先時代でもあった。忘却について言えば、高度成長期の日本は、深刻な経験や問題を忘れる能力のある者が優者で、過去をいつまでも忘れられない者が負けていく、そんな時代であった。
やがて、バブル。忘れちゃいけないことも平気で忘れてしまう。ノリと軽さと無駄遣いの時代が来る。ここで日本は決定的に国を誤る。せっかく豊かになった富を、ストック(広い意味での社会資本、社会インフラ、研究投資、芸術文化や教育教養も含めて)に転換せず、ひたすらフロー(社会における金融の流量)を追求した。不動産投資、金融投資、マネーゲーム。つまりはフローの方が、もの作りや研究開発よりも早く結果が出る。出世につながる。目の前の刺激が、ほんとうに大切なことを忘れさせてしまう。人々はついでに純愛も忘れ、ひたすら欲望の充足に走った。
バブル崩壊。高齢化社会、人口減少。自分で何をして良いのかわからない惚けた経営者が、「若い人に任せる」と言って部門ごと責任を丸投げし、結果責任だけを追及するようになり、日本国中がヒラメ社会化した。「やってみなはれ」でも「だめならクビよ」という社会は、やがて大量の非正規雇用者を生み出した。それは、セーフティネットなんてどこにもない、ひどく危なげで不安な社会でもある。高度成長の戦士は恍惚老人と化し、忘れたくなくても忘れてしまうのは、日常の食事や出来事、身の回りの地図と位置。はいかい、行方不明の老人を社会がどのように守るのか、高齢者の忘却は、社会共通の大問題である。
そして、今、日本の国家自身が、70年前の戦争の死者を忘れ、他国に犯した過ちを忘れ、かつて世界の人々に対してした崇高な約束を忘れようとしているのではないだろうか。