久しぶりに会った高校・中学の後輩が言う。「私は実はあなたのことを尊敬していたんですよ。」「あなたのクラス担任だったT先生から聞いた話ですが・・」「君たちの先輩には、凄い男がいる。英語の教科書なんて、一ページに単語二、三語わかれば、大体何が書いてあるかはわかるそうだ。」
ふむ、たしかに中学生の頃、そんなことを豪語していたような気もする。そしてそれはまんざら嘘ではない。たとえば筆者は、さほど英語に堪能な訳ではないが、英字新聞を斜め読みすれば、大体何が書いてあるかはわかるのである。何故かというと、ウクライナ情勢であれ、パレスチナ情勢であれ、どこかの国の選挙戦の情勢であれ、普段ニュースなどを見ていればおよその知識はすでに先に持っている。そこで英字新聞を読んで、昨日の出来事を示唆する二、三の単語が目に飛び込んでくれば、想像力を働かせて、昨日こんなことが起きたに違いないという、「凡その当たりをつける」ことができるのである。この「凡その当たりをつける」暗号解読みたいな言語習得法は、自分の全く知らない言語、たとえばイタリア語であっても、スペイン語であっても原理的には適用可能である。
ちなみに筆者は、自分の学んだことのない言語を使う国に降りたって、十日もすれば、なんとか独りで飲食店に入って、料理を注文することができる。ただしこれにはリスクもあって、昔ドイツ語を知らないのに、ドイツの鉄道に乗って一人旅をしていたときに、とある駅で自信満々で「ビールとミートパイ」を注文したつもりだったところ、相手が変な顔をするので、「どうしたのだろう」と不安に思っていたら「ビールと木苺のパイ」が出てきてしまったということがある。これなどは「木苺」という単語を知らないのに、勝手に自分の想像で「このパイはミートパイにちがいない」と思い込んでしまったために起きた事故である。
筆者が何故、どのように、かかる邪道に近い言語の学び方を覚えたかというと、それは筆者が、小学校1年生のときに、まったく英語を知らないのに、突然アメリカの公立小学校に入れられてしまったからである。小学校低学年というのは、言語を学ぶには微妙な年頃である。それよりもちいさい小児であれば、そもそも自分がどのように言語を習得したかの自覚がない内に言語は自然に身につくのである。一方小学校高学年から上であれば、母語以外の言語は、概ね学校で先生について学ぶもので、単語以外に言語を構成する方法(文法)や語尾の変化なども同時に学ぶ。外国の学校に入って、もし語学力が乏しいと判定されると、一年とか二年学級を落とされるか、自分の母語以外の言語を学ぶために特別クラスに入れられたりする。だが、小学校低学年では、「文法もへったくれもなく、いきなりその言語を使う」のが教育である。筆者は天才でも何でもないが、アメリカの学校に入ったその日のうちに、隣の少年が「今日家に遊びに来いよ」と招いているくらいはわかったし、二、三ヶ月後にはあまり不自由なく、他の子供たちと遊びの時に会話することができるようになった。
授業の内容は、だいたい日本の小学校より幼稚であったから、それこそ「想像力を働かせる」方式で乗り切った。付け加えれば、発信の際に知らない単語を知っている単語に置き換える方法もある。これは「虎」という単語を知らないときは「黄色い、黒い縞の、強そうな、大きい猫みたいな動物」とか言うものである。筆者は、小学校で学んだ英語を帰国後一度完全に忘れた。が、邪道の方は忘れなかった。高校の上級生になるまでは、この邪道を用いて、英文法を知らずに(SubjectのSが主語を表す略語であることも知らなかった)なんとか英語の授業をやりすごすことができた。
今月の言葉
2025年11月28日
言語を学ぶ
