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今月の言葉

2019年10月1日

二つの日本

 話は平安時代にさかのぼる。

 平安朝の初め、律令に基づく口分田(人民に一律給わる農地=国有地)は、西日本に偏在していて、関東平野から東の耕地は少なく、未開の原野が広がっていた。京都の朝廷が軍を催し、蝦夷を征伐しながら東進すると共に、西日本の国有農地を逃散した農民や、朝廷の政策で植民された朝鮮半島の人々などが東日本の未開の原野を開拓し農地化していった。開拓地では、すぐに境界争い、水争いなど命がけの暴力沙汰が起きた。現地には、ぬきんでた実力を持つ調停者はいなかった。人々は、やがて京の貴族や寺社などに形式的に開墾地を寄進し、自分の土地を貴族の荘園とすることで保護を求め、境界争い、水争いを有利に導こうとした。東日本の土地はこのように、農民から見れば世を忍ぶ仮の姿として荘園になったのである。京の荘園主は土地を保護する代わりに、農民達を武装させ、京での彼らの警固や、争いごとへの武力サービスを求めた。武士の誕生である。その後京側の過剰なサービス要求に耐えかねた関東の武士達が、天下りの貴種(はじめは平将門、後には源頼朝など)を擁して武装決起し、関東を中心に自力で争いごとの調停役を立てたものが将軍であり、将軍による調停機関が幕府。幕府が荘園に派遣する代理人が守護、地頭である。

 (ここまでは以前の本欄でも述べた)

 守護や地頭は、鎌倉時代以降西日本の荘園にも派遣された。だが、西日本ではだいぶ事情が異なっていた。そもそも、西日本の荘園は、農民達が自力で開墾したものではなく、平安時代初期の国有農地が次第に京の貴族や寺社によって私領化されたものであって、武装農民が決起して自らの調停機関を立てるような事情にはなかった。守護地頭は鎌倉から派遣されてきたが、新たな権力者である幕府が武力を持っているから農民は彼らを受け入れたのであって、積極的に来てほしいと頼んだのではなかった。むしろ心情的には、旧来の荘園主である京の貴族や寺社、さらにその上に君臨する天皇の方が、西日本では親近感があり、敢えて言えば、幕府は西日本では心理的に遠い存在であったとも言える。

 戦国時代の終わり、覇者豊臣秀吉は(偶々出自が低く、将軍にしてもらえなかったという事情はあるが)幕府を立てず、関白として疑似朝廷権力を摂り、その豊臣政権(公儀と呼んだ)を関ヶ原の合戦後微妙に換骨奪胎し実権を握るために、徳川家康は征夷大将軍となり幕府を立てる道を選んだ。秀吉は概して西日本で人気があり、家康は主に東日本で支持された。

 さて、以上のことは明治維新の今日での評価を二分するものであることを書きたい。

 戦後七十年を経て、もはや明治維新について薩長史観も徳川史観も、どちらが公式の歴史観かを争うような時代ではなくなってきた。にもかかわらず、昨今の時代劇や歴史小説を読むと、「明治維新の時、徳川幕府は因循姑息で新しい時代に耐え得ず、外国勢力と結んで国を危うくするおそれがあったので、薩長が天皇を中心に新しい権力を打ち立てた」説と、「江戸時代を通じて徳川幕府は社会の緩やかな近代化に成功しており、幕末開国後の外交にも大過はなかった。明治維新は外国に使嗾された薩長の権力奪取の陰謀に過ぎない」説が拮抗している。どちらも背後で英仏と手を握りはしたが、日本の独立が破れる直前で手打ちにしたことは周知の通りである。が、上記両説の背景に、西日本と東日本の感じ方の違いを見るのはこの稿の筆者だけだろうか。