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今月の言葉

2022年12月12日

慶喜恭順

 近世、近代日本史には三つの大きな「謎」がある。第一は、明智光秀は何故織田信長に叛いたのか。第二は、浅野内匠頭は何故吉良上野介に刃傷に及んだのか。そして第三は、徳川慶喜は何故軍事的に優位だったのに薩長(西軍)にひたすら恭順したのか。

 今月は、このうち第三の謎について書きたい。

 まず初めに、徳川慶喜という人物が幕府制度や将軍職にあまり魅力を感じておらず、天皇を頂点とする国家の下で、徳川氏の行政能力、経済力、軍事力などを背景に中枢の地位を得たいと思っていたであろうことを書く。これについては慶喜の生家である水戸徳川家の遠祖光圀が私淑していた明からの亡命学者朱舜水の影響を指摘したい。朱舜水は、清に滅ぼされた明の復興運動に幾度も挫折した後、日本に亡命してきたのだが、日本のありようを見て何故か感激してしまった。日本の歴史には放伐革命による王朝交代がなく、萬世一系の皇室というものが継続していたからである。そのことはとくに王朝の交代によって前王朝の遺臣となってしまった朱舜水の胸を打ち、「日本こそが中華の国だ」とすら思わせた。彼の思想的影響が水戸藩の代々に及び、当初は徳川幕府に忠節を尽くすことが、ひいては天皇(君)に対する忠義であるという見解であったものが、次第に後期水戸学になるにつれて、徳川幕府を脇に置いて、天皇に対する直接の忠義という考え方が出てきた。慶喜はまさにそのような思想的環境の中で育てられた。

 次に、慶喜が一方の主人公であった、十三代将軍家定の後継争い。この一橋派(慶喜を担ぐ)と南紀派(紀州藩主徳川慶福を担ぐ)の争いは、単なる幕府内の宮廷闘争ではなく、薩摩、越前など有力な列藩藩主と協議をしながら政治を進めるのか、あるいは従来通り譜代専制の幕閣が政治の主導権を握るのかという考え方のちがいがあったのである。つまり慶喜には、十四代将軍家茂(慶福のこと)の急死によってやむをえず征夷大将軍に就任する遙か前から、列藩協議による政治運営の構想があったことになる。そして孝明天皇の信頼が厚かった慶喜にとっては、この構想の中で自らが中心となって政治を進めていくことはけっして夢ではなかった。

 ところが、わずか半年後その孝明天皇までが急死してしまう(暗殺説もある)。やむをえず慶喜は、幕府と言うよりは徳川氏の軍事力を刷新強化し、政治の主導権を持ち続けようとする。これに最も脅威を感じたのが薩摩藩である。何故ならば、徳川主導であれ、後の明治政府であれ、新しく天皇の下で発足する国民国家日本には、早急に解決しなければならない課題があったからである。

 それは「廃藩置県」による中央集権化であった。そして慶喜主導で廃藩置県が為されると言うことは、おそらく薩摩の滅亡を意味する。長州、そして薩摩という軍事力で徳川氏と対抗しうる大藩は、武装を解除され、(実際に初期明治政府における徳川氏がそうであったように)完全に権力の中枢から排除されるだろう。ここから薩摩の一部藩士による挑発と武力倒幕という陰謀が開始されたのだとこの稿の筆者は考えている。その後大政奉還と倒幕の偽勅が同日に起きる話から、小御所会議のクーデター、薩摩の挑発、鳥羽伏見の戦いまでの経緯はよく知られるとおりである。慶喜はまんまと天皇の下での国家運営の主導権を「偽錦旗」を掲げる薩長に奪われてしまった。幕府というものに魅力を感じていなかった慶喜にとって、そのことは痛恨事ではあったが、それでも朝敵となって武力抵抗を続けるという選択肢はなかった。慶喜は恭順するしかなかったのである。