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今月の言葉

2026年5月29日

らせん教育論

 今月は、この稿の筆者が教育について思っていることを、とりとめもなく記していきたい。
 近代社会においては、それ以前の人類の歴史にはあまりない、社会制度としての学校というものが開設され、国民全体に対する総教育が行われるようになった。これを以て国家が求める最低の知識を標準化して立派な兵士や労働者を作るため、あるいは家庭だけではなく銃後で労働を担う女子を養成するためという人もいるし、そういう側面もあっただろう。が、一方で小説「クオレ」や「路傍の石」などが示すごとく、それまで教育機会を与えられなかった貧困階層の人々にとって、この学校制度はあきらかに恵み深いものであった。また、日本においては戦前の陸軍士官が、幼年学校(現在の中学二年生くらいから)で軍人教育の鋳型にはめられ視野狭小であったのに比べて、海軍兵学校(現在の高校三年生くらいから)を出た海軍士官は普通教育の課程を経た上で軍人となったので、陸軍よりも広い視野と常識をもって社会を見ることができたといわれている。
 上記はいずれも同一世代のすべての男女に学校制度による普通教育を与えることのメリットを説くものであるが、一方最近の日本のように十八歳以上の成人世代の約半数が大学に進学するというのは如何なものだろうと筆者は考える。戦前はそれでも師範学校、士官学校、兵学校、商業や工業専門学校、医科専門学校、農学校、水産学校等々大学に並行して様々な専門教育をおこなう学校が存在したが、現在ではこれらは殆ど絶滅してしまい、人々は何故か一般的な教育(一部の研究者養成大学を除いては、高校までの普通教育の焼き直しにすぎないように筆者には思える)を与える大学に進学するようになってしまった。これは本人のためにも社会のためにも損失である。
 さて、話は変わって東アジア圏(とくに中国や朝鮮など科挙文化を背景に持つ国々)の息苦しくなるばかりの受験競争について、筆者が持っている反感を述べたい。この世の知識の総量というものはほぼ無限であるのに、それを十八歳くらいまでに身につけておくべき知識の標準として(例えば学習指導要領みたいなものに)まとめ、その標準知識をどれだけ身につけているかを試験というもので競わせる。しかも全国統一的な試験の結果、同一世代の人口のすべての者に(偏差値という名の)順位がついてしまい、その成績が一生の命運を左右するような社会制度はおかしいと思うのである。高校を卒業して普通教育の焼き直しにすぎないような大学に進学するくらいなら、専門学校(アニメでもデザインでも好きなものでよい)へ行く方が社会と自分の両方のためだと思うのだが。
 一方で欧米の教育にも毀誉褒貶はあるが、西洋的な教育のやり方は、人間の身についている知識の量を問うのではなく、知を身につける能力(自ら疑問を呈し、問題の所在を考え、自ら知の海に分け入って調べ、創意と工夫によって仮説を見いだし、周囲の人々との討論をつうじて問題の解決に至る能力)を磨くことを旨としているように思える。ただし、こうして身についた能力を「測る」ことは難しいので、西洋的なやり方では「順位」をつけにくいという問題はある。が、そもそも人間の能力には様々な側面があるので、たとえばヴァイオリンの名手とサッカーの選手、靴職人と料理人の間に「順位」をつけようという方が間違っているのではないだろうか。
 筆者の経験をやや極端化して言えば、西洋では小学校から大学院まで、ほぼ毎週テーマを決めて、問題を考え、調べ、発表し、それをもとに教師や同友と討議をくりかえして善知に至る、らせん状の教育のプロセスをくりかえしているように見えるのである。