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今月の言葉

2025年9月30日

東京六大学野球

9月になると、神宮球場は東京六大学野球秋季リーグ戦の真っ盛り。もっとも昨今では、野球人気はもっぱら米国大リーグ(MLB)の日本人選手の活躍に移ってしまい、その次が日本のプロ野球と甲子園の高校野球。六大学野球と都市対抗の社会人野球なんぞはすっかり地味な存在になってしまった。が、選手の技量はプロ野球の予備軍と言ってもよいし、以下に述べる独特の応援様式などを見ると、やはり東京六大学野球にはよき伝統の美しさもあると思うので、今日はそのことを中心に述べたい。

 東京六大学野球連盟が結成され、リーグ戦が慶應、早稲田、明治、法政、立教、東京帝国の六校で行われるようになったのは大正14年(1925年)。翌大正15年(1926年)には、六大学野球を開催する「ために」明治神宮野球場が完成した、と、連盟の発行しているガイドブックにはある。当時はまだプロ野球もなく、六大学野球は大相撲に次ぐ国民の人気スポーツであり、まだ普及したばかりのラジオによる実況中継とも相まって、今日では考えられない程の大衆の注目を集める存在であった。

 さて、この稿の筆者が初めて六大学野球に触れたのは、今から約半世紀前。1971年慶應義塾に入学した直後の春季リーグ戦、法政大学対慶應義塾大学の試合であった。日吉にキャンパスから当日の午後の試合を先輩に連れられて見に行った記憶があるから、たぶん5月の月曜日の試合(土、日が一勝一敗になると月曜日に勝ち点をめぐって第三試合が行われる)であったろうと思う。 法政横山晴久投手に対するに慶應義塾の四番打者は松下勝美の対決。連盟の公表している記録を調べてみるとこの春季リーグ戦は、法政が優勝した(その後の71年秋季から三季連続で慶應が優勝)とあるから、多分この試合も法政が勝ったのであろう。ともあれ、初夏のさわやかな風が吹く神宮球場、試合が終了したのは暮れなずむ頃、一塁側慶應義塾の応援席から、三塁側法政の応援席を眺めれば、傾く夕日を受けて輝く紺オレンジ紺三色縦縞の法政大学の大きな校旗がさっと上がるとともに、校歌の演奏が始まる。筆者は当時慶應、早稲田、明治の校歌くらいしか知らなかったが、初めて聴く法政の校歌は荘重でいかにも校風をよくあらわしており、三塁側内野学生応援席をほぼ埋めた学生たちの合唱が夕べの球場に響くのであった。ついで法政から慶應に向けたエールの後、今度はわれら慶應の塾旗が上がり、長い歌詞の塾歌の一番が合唱され、「フレー、フレー法政」のエール。そして、校旗と塾旗がお互いに礼をするように一度相手に向けて静かに倒されて、また上がる。これら儀式の間およそ15分。なにより、慶應の塾生となったことを実感する瞬間であった。筆者は、その伝統の様式美にうたれ、その後「神宮通い」をするようになったのである。慶早戦に至っては、実に在学中六年間全試合(たぶん30試合くらい)を完全にフォローしている。