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COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
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にらむ
歌舞伎十八番の内、「暫」は成田屋、市川団十郎のお家芸である。 「暫」は、多くの歌舞伎作品がそうであるように、劇の筋はナンセンスなのだが、場面の様式化によって十八番に数えられた作品である。
無辜の弱者が、悪者に捉えられ、あわや打ち首にというところで花道から「暫く~」との声がかかって、主役が出てきて大立ち回りを演じて悪者をやっつけるという、それだけのお芝居。主人公「暫」は、一応、鎌倉権五郎景政という実在した人物ということになっているが、霊力を持つ前髪立ちの少年であり、まあ人間離れしたスーパーヒーローとして描かれている。そのスーパーヒーローが、どのように霊力を発揮するかというと「にらむ」のである。(アニメであれば、アイパワー光線か何かが出て怨敵退散になるところだろう)
よって、「にらみ」自体が成田屋相伝の芸となり、団十郎襲名の口上などの時には、「吉例により、にらんでご覧に入れまするう~」とかいってこの芸を単独で披露する。
昔は、団十郎の楽屋に贔屓筋が押し掛け、魔除けのために「暫」の隈取りをした団十郎ににらんでもらったこともあったそうだ。役者の楽屋で「おにらみサービス」をして、神社のおはらいの代わりをしていたようなものだ。
睨め付ける、すなわちにらみつけるとは、相手を威圧すること。眼の奧に強い意志が宿るために、相手に威圧感を感じさせるのであろう。この意志の力によって、人間界だけではなく、魑魅魍魎をもやっつけるパワーがあると考えられた故に、昔の人は「にらみ」の霊力を信じたのであろう。いわゆる目力というやつである。
にらむという行為は、巷間「ガンを飛ばす」ともいう。この稿の筆者は、比較的おとなしい私立高校を出て、受験して大学に入った初日に、その大学の付属高校から来たクラスメート達が、「おい、さっき○○高のやつがガンを飛ばしやがったから、授業が終わったら殴りに行こうぜ」などと言い合っているのを聞いて、飛び上がって驚いた経験がある。
そもそも「ガンを飛ばす」というのはどのようにしてやるのだろうか。眼を細め、瞳孔を縮め、相手の方をキッと睨みつけるのであろうか。でも、偶然眼が合っただけでも「おい、手前、ガンをつけたな」とからまれることもあるって言うし・・いやこれはガンをつけるのではなしに、言いがかりをつけるというのだろうか。などと大学新入生だった筆者は、心の中で煩悶していたのである。
さて、ガンを飛ばすような場合、瞳はどちらかというと縮んでいるのだが、逆に瞳孔を開いて、相手をぼんやり見つめるような場合がある。これを女性にやられると、男はすっかり参ってしまって、相手が自分に気があると思い込んで猛然アタックする気になったりする。それと近い話で、筆者の知り合いにかなり近眼の女性がいて、本人には特別な気持ちがなくても、相手をすぐに見つめてしまう。この女性は、なかなか美人だったこともあり、男性に大人気、モテモテであった。 どうせ目力を発揮するのなら、にらむ霊力よりも、見つめる霊力の方がうれしい。2013年8月1日
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かみなり
ベンジャミン・フランクリンは西暦1706年1月、イギリスの植民地であったアメリカ・マサチューセツのボストンに生まれた。アメリカ独立宣言の起草者の一人。独立戦争時には、合衆国の駐フランス大使となり、ヨーロッパにおけるアメリカ独立支持の世論形成に大きく寄与した。ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソンなどと並んでアメリカ建国の父として、いまでも米国民から尊敬されている。現在の米合衆国$100紙幣には、フランクリンの肖像が描かれているから、まあ日本で言えば福沢諭吉と同格の人と思えばよいかもしれない。
フランクリンは、政治家、外交官としてだけではなく科学者としても大きな業績を残した。1752年嵐の中で、凧を揚げ、雷雲から電気を取り出して見せた実験で世に知られている。ただしこの実験はきわめて危険なもので、後にロシア人リヒマンがフランクリンの実験を追試しようとして感電死亡したので、その後は「真似してはいけない実験」とされている。ともあれ、フランクリンのこの実験によって、雷が電気であることが解明された。雲の中にたくわえられた電気が地上の尖った高いものに放たれる放電作用が「落雷」である。フランクリンは建物や人間への落雷を避け、雷の放電をアースして逃がす避雷針の発明者でもある。
雷のメカニズムが解明されるまで、人類は雷を「神鳴り」として恐れてきた。落雷の轟音、稲妻の閃光、高圧の放電によって木や人が一瞬で黒焦げになってしまい、火事も起きる。まことに「かみなり」は天の怒りが地に下る様と思われたのである。ギリシア神話における雷神はゼウスという最高神であるし、北欧神話の雷神トールも最強のつわものである。我が国の神話における雷神はタケミカヅチ(建御雷)と言って茨城県は鹿島神宮の祭神。藤原氏の始祖中臣氏の祭神でありトールと同じく武神、軍神としても崇められている。
雷を大和言葉で読むと、「かみなり」「いかづち」である。かみなりは「神鳴り」で神様の発する音のこと。いかづちは怒りの槌ではなく「厳(いか)つ霊(ち)」が語源である。
電は大和言葉では「いなづま」。現在は稲妻と書くが、語源は「稲の夫」である、稲の実る時期に雷が多いことから、雷光が稲を実らせるという民間信仰があったのだという。
戦前の帝国海軍では、特型駆逐艦「吹雪」シリーズの23番艦が「雷」、24番艦が「電」。その名を継承して、海上自衛隊の護衛艦にも「いかづち」「いなづま」がある。
最後に、「地震、雷、火事、おやじ」についてふれたい。この中で、前三者は天災、最後は人災(?)でなんだかヘンに思われるかもしれない。が、ここでいう「おやじ」とは親父ではなく大山風(おおやまじ)即ち台風のことだそうである。この四大天災の末尾が親父と混同されたところから、「雷親父」という言葉が生まれた。昔の日本には「バッカモン」と理不尽な雷を落とすサザエさんの磯野波平みたいなオトウサンがいたものだが、現代の親父は奥方の前ですっかり萎縮してしまった。フランクリンが、雷のメカニズムを科学的に解明して、神鳴り様の有り難みが薄れたためだろうか。2013年7月26日
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お+動詞
さる金融機関のコマーシャルである。
「通帳のお取り替えがまだお済みでないお客様は・・・」
お、なかなか上手に丁寧語をつかっているな。正しい日本語だと思う。
ところがフィニッシュで「至急ご来店の上お取り替えしてください。」
あ、やっちゃった!と、思う。
「お取り替えしてください」は正しい日本語ではない。 では、正解は何か。「お取り替えください」または「お取り替えになってください」である。だが、こんな場合もある。書店の店頭でお客が、買ったばかりの本を持ってきて「この本は少し汚れている」と言ったとする。
書店の店員であるあなたは、「それは申し訳ありませんでした、お取り替えいたしましょう」という。これは正解である。左を少しだけ略して「お取り替えしましょう」でも、間違った日本語とまでは言えない。だが、お客様に「お取り替えしてください」と言うのは大間違いである。よく考えてみると、自分の行為に「お」をつけるのが正解で、相手の行為に「お」をつけるのは間違いだというのは何となく変な気もする。だが、「お○○する」は、謙譲語であって、尊敬語ではない。
「大皿からおかずをお取りしましょう」は○
「大皿からおかずをお取りしてください」は×
ところで筆者は、いま、マイクロソフトのワードというソフトウェアでこの稿を書いているのだが、このソフトウェアはなかなか利口者で、「おかずをお取りしてください」と入力すると、ちゃんと警告が出てしかも何処が間違っているかを説明してくれる。
ワード君に言わせると「お取りしてください」は「尊敬語と謙譲語を混同している」故に間違いなのだ。では、経験則ではなく、「お」のつく言葉を使うこつはなにか。
法則を敢えて見つけようとすると、「お+動名詞+になるorいたす」が正解である。
冒頭掲げた「通帳のお取り替えがまだお済みでないお客様は・・・」の「お取り替え」「お済み」はいずれも体言的に用いられる。こつはこの体言的と言う所にある。
「同意する」は「ご同意になる」、「協力する」は「ご協力いただく」、「研究する」は「ご研究になる」。これ皆動詞を体言として用いる丁寧な言い方である。尊敬語の類に入る。
それでは、応用問題。
「やいやい、手前が肩をおいらの顔にぶっつけたんじゃあねえか!一言ぐらい詫びたって罰は当たるめえ」をできるだけ丁寧な日本語で言いなさい。(ちなみにこの稿の筆者は、修羅場と言える場面では徹底的に丁寧語作戦にでて相手を怯ませるのを戦術としている)
正解は以下の通り。「そちら様が、ご自分のお肩を私の顔におふれになられたのではございませんか。一言ぐらいお詫びいただいても罰はあたらないのではと思うのでございますが」って、やっぱり正しい日本語も丁寧すぎるとちょっと気持ちが悪いかな。2013年6月1日
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西郷贔屓
小沢一郎裁判は、この稿が発刊される頃にはすでに判決が出ているかもしれない。
裁判の結果小沢氏が、有罪になるのか無罪なのかはここでは問わない。が、この裁判の中で小沢一郎の罪を問おうとする側が声高く主張している内容に、違和感をもつ点がある。この裁判は、要するに彼の秘書が行った4億円だかの土地の売買に、彼本人が関与したかどうかということを争うものであった。秘書は「報告はした」という(この証言の信憑性も争点だが)。小沢氏は「聞いたのかもしれないが、よく覚えていないし、指示もしていない」という。検察官役の弁護士は、「そんな多額の自分の財産を処分するのに、下の者に任せきりにするわけはない。きっと指示したはずだ。」と追求する。予断としては、「下僚に罪をなすりつけて、自分は逃げようとしているのではないか、それは許さない」と言いたいのだろう。だが・・何となくの話として、こういう地位も高く忙しい人が、4億円程度の土地取引について「下の者に任せきり」で「ふんふん、あ、そう」という態度をとることが「一般人の常識ではあり得ない」程のことなのだろうか、と思うのである。
日本的風土の中では、部下に細かい指示をする上司はむしろ避けられるのではないか。
そこで、話は急に飛んで、日本人の西郷贔屓ということを考えてみたい。
西郷隆盛は、薩摩出身。明治維新の英雄である。が、明治維新の十年後、西南戦争を起こして新政府と武力で争い、征伐されて命を落とした。明治時代には「反逆者」とされて長く名誉回復されなかった。その「西郷さん」が「反逆者」であるのに、多くの日本人から愛されたのは、西郷さんの態度がまさに「下の者に任せきり」「責任だけは自分でとる」というように見えたからなのだろう。
西郷は、政府内の論争に破れ、鹿児島に帰って、「私学校」というものをつくり、郷里の若者たちの教育にあたった。その若者たちが、暴発して明治政府の武器庫を襲ったのを知ったとき西郷は薩摩弁で思わず「しもうた」(しまった!)と叫んだという。だが、すぐに「この命はおはんら(私学校の若者たち)にくれもそう」と言って、反乱軍の将に担がれることを受け容れたという。日本人は、本能的に「上に立つ人は、西郷のような人であってほしい」と願っているところがある。逆に、切れ者でも、自ら事を企画し、細かい指示を出して部下を使うようなタイプの上司(たとえば西郷の親友でありライバルでもあった大久保利通?)はあまり好まれない。史実の西郷は、とくに若い頃は細かいことに良く気がつく良吏であったらしいが、人の上に立つに及んで、日本人の性向にあわせて、「担がれる上司」を演じるようになったのではないだろうか。 話は、小沢裁判に戻る。小沢一郎氏が有罪になれば政治的に失脚し、無罪なら復権するだろうというのは早計である。日本人が期待するのは、横文字のaccountabilityとかcomplianceとかが似合う上司像ではない。だが、「秘書がやった不始末も全部自分で背負って責任をとる」上司なのだ。だから、裁判の帰趨にかかわらず、小沢氏が人気を回復するのは、なかなか難しいのではないだろうか。2013年5月1日
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風土記
時は、奈良時代の初め。西暦707年から715年まで(年号で言うと慶雲とか和銅あたり)在位された元明天皇という女性の天皇がおられた。その元明天皇が常陸の国司に詔(みことのり)して言われるには、「古老(ふるきおきな)の相伝える旧聞(ふること)を申す事」を集めて上申しなさい。つまり土地の古老に昔の出来事などを話させて、それを編集せよと言う命令を出された。命令が出たのは、常陸の国だけではなく、おそらく全国の国司達に命令が下されたと推察される。その命令に答えて各地方で編纂されたのが風土記である。風土記の多くが歴史の中で散逸してしまったが、現在出雲、常陸など五カ国の風土記がほぼ完本で残っている。たとえば、この中から、出雲国意宇郡の条を覗いてみると、構成は「郷里、駅家、神戸、寺院、神社、地名、通道」などとなっていて、当時の人々の「つながり」が宗教と交通によっていたことが分かる。また地名については、山野、河川、池、浜、島の名前の由来などが扱われている。
器量
風土記には、その土地に伝承される神話、民話なども収録されている。まだ文字の普及が民間に深く及ばなかった当時、古老の口碑こそが神の話を世に伝える手段であったのだろう。古事記(元明天皇の最晩年にあたる西暦712年に献上された)や日本書紀(西暦720年成立とされる)も、おそらく当時の朝廷に都合良くモディファイはされただろうが、編集時に創作されたと言うよりも、こうした古老の口碑を集めて、取捨選択したものなのであろう。風土記に集められた旧聞(ふること)を原典(ソース)として、古事記や日本書紀が成立したのかも知れない。
歴史が遷ると、社会が何によって成り立ち、つながっているのかもかわってくる。中世、近世と日本の歴史が進むにつれて、神仏だけではなく「俗」の部分、商売、農事、旅などが地誌に登場するようになる。江戸時代まで、こうした地誌を「風土記」と名付ける習慣は続いた。たとえば文政13年(1829年)頃成立した「新編武蔵風土記稿」は、当時の幕府の内命にもとづいて、自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗など、およそ土地・地域についての諸々の事柄を網羅している。
近代になると、帝国陸軍参謀本部は、「兵要地誌」というものを編集した。
兵要地誌は、軍隊が出かけていく先の土地のガイドブックで、鉄道や道路の情報はもちろん、天候気象、人情風俗から、病気、食べものに至るまでの情報を揃えた。これも風土記の一種である。
さて今日、多くの読者が、小学生時代、バスに乗ってどこかの工場とか、浄水場とかの施設に「社会科見学」に行かれた経験をお持ちだろう。「聞くと見るとは大違い」と言って、まずは子供達に書物の中で社会を教えるのではなく、実物を見せるというのが、社会科見学の狙いである。
だが、狙いはそれだけではない。工場に行ったら、製品の原料はどこから来るのか、工員さんはどこに住んでいるのか、毎日何時間働くのか、ものを作るのにどんな機械を使っているのか、電気をどれだけ使うのか等々、ひとつの施設が動いて行くための「つながり」が社会であることを学ぶのである。地理とか地誌というのは、その土地その土地に暮らす人々や産物、営みがどのように「つながって」成り立っているのかを示すものである。
「社会科見学」の小学生達が見ているものも、現代日本の風土記のエレメントなのである。
2013年4月1日