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COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
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滑川の炬火、佐野の雪
鎌倉武士のお話しを二題。
青砥左衛門尉藤綱は、第五代執権北条時頼(在職1246-1256年)の時代に、引付奉行人(裁判官)をしていた人。東京都葛飾区の京成線青砥駅付近と横浜市金沢区富岡のバス停「青砥」の辺りに屋敷があったと言われるが、定かではない。公正な裁判官としての逸話を多く残しているが、ここでは、経済に関するお話しをとりあげる。
ある日、青砥藤綱が鎌倉滑川の橋を通りかかった際、懐中から誤って十文の銭を落とした。
彼は、家臣に五十文の銭を与えて松明を買ってこさせ、その炬火の明かりで無事十文を滑川の底から拾うことが出来た。
さる人が「十文の銭を拾うために五十文の松明を買ったのでは、差し引き四十文の損ではないか」と問うと、藤綱は次の様に答えたという。「川に落ちた十文を拾わなければ、永遠に天下から十文が失われる。だが松明を買った五十文はそのまま天下に流通し、拾った十文も私が使えば流通するから、私にとっては四十文の損でも公には六十文の得である」
つまり、お金は天下の回りもの。個々人の損得よりも、お金が天下に流通することが、経済にとって大切だということを、鎌倉時代の昔に見抜いていた人がいたというお話し。
一方、上記の執権北条時頼は引退隠居後最明寺入道を名乗り、諸国を旅して民情を視察して歩いたという伝説がある。その伝説にもとづいて室町時代に創作された謡曲「鉢木」には、上野の国(栃木県)佐野の人、佐野源左衛門常世という武士が登場する。
ある大雪の日、佐野の里の貧しげな民家を、旅の僧が訪れ、一夜の宿を請う。家はあまりに貧しく、旅の僧をもてなすことが出来ないため、家の主は、大切にしていた桜、梅、松の鉢植えの木を囲炉裏にくべて僧に暖をとらせる。家の主は佐野源左衛門常世と言い、親族の者に土地を押領されて貧乏に追い込まれている。が、旅の僧には、「かやうに落ちぶれては侯へども、今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともこの具足取つて投げ掛け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に弛せ参じ着到に付き・・」と武士の志は捨てずにいることを語る。
僧は、感謝と共に「もし鎌倉に来られることがあれば、お力になれることも・・」と言いつつ宿を去る。やがて、鎌倉に大変が起き、佐野源左衛門常世が、志の通り鎌倉に駆けつけてみると、なんとあの時の旅の僧が前執権北条時頼であって、常世の志を賞で、「あの時の鉢木の御礼」にと、加賀国梅田荘、越中国桜井荘、上野国松井田荘を所領として与えてくれたと言うお話し。
当時の武士は、一所懸命といって土地に命を賭ける存在。鉢木の物語のハッピーエンドが、梅、桜、松にちなんだ土地の恩賞というのが、いかにも鎌倉武士の話らしい。
鎌倉時代の北条執権と言えば、元寇の時の執権北条時宗くらいしか知っている人は少ないかもしれない。が、時頼は時宗の父親にあたる人で、江戸幕府で言えば徳川吉宗のような「中興の祖」的な存在と言って良い。鎌倉時代の名奉行青砥藤綱は、江戸時代で言えば大岡越前守のような人。謡曲「鉢木」も、お話しには違いないが、諸国廻遊伝説という意味で言えば、水戸黄門の鎌倉幕府版と思えばよいのではないか。
2014年8月1日
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氷川丸
1959年(昭和34年)8月下旬。彼女は、当時29歳。まもなく自分が引退することを既に知っていた。シアトル。いつ来ても懐かしいこの港に入るのもあと何回か・・
この稿の筆者は当時6歳。彼女の船客の一人として、太平洋を渡り、航海最後の朝早く、喫水線に近い三等船室で目覚めた。陸地は既に前日の夕方バンクーバー島を見ていた。
夜の間に彼女はバンクーバー島と北米大陸の間の狭い海峡を南下して、シアトルの泊地をめざした。やがて辺りが明るくなると、靄の彼方に埠頭が現れる。税関吏なのか、検疫官なのか、役人とおぼしき米国人が小艇を寄せて乗り込んでくる。三等船室を満たしたフルブライト奨学生達が起き出して、下船の支度を始める。
彼女、日本郵船氷川丸の就役は1930年(昭和5年)5月13日。日枝丸、平安丸という姉妹船と共にシアトル・バンクーバー航路に投入される貨客船として建造された。サンフランシスコ航路を担う浅間丸・秩父丸(後に鎌倉丸)・龍田丸とともに、船名は各地の神社の名前にちなんでつけられた。第一次世界大戦後「世界の一等国」を自認するようになった我が国が、当時世界に誇ることのできる瀟洒な新鋭船であった。航路の終点シアトルの人々も、交代で北太平洋の定期航路をやってくる三隻の姉妹船を、歓迎し愛してくれた。だが、1941年(昭和16年)8月彼女が11歳のとき、日本政府は横浜-シアトルの定期航路を断つ。10月彼女は最後の北米航路を、往路は日本を引き上げる米国人カナダ人、復路は米加在留邦人帰還者を乗せて航海した。そして、12月開戦。
彼女は帝国海軍に徴用され病院船に改装された。オーシャンライナーの馴染み深い黒の船体は純白に、日本郵船の白地赤二本線のファネル(煙突)マークは赤十字に塗り替えられた。南方に出征した兵士達は、病院船氷川丸の姿を「白鳥」と呼んだという。
戦争の間、彼女は幸運であった。日本郵船の同僚達が、航空母艦、潜水母艦、輸送船などに改装され、次々と太平洋に沈められていく中、病院船であった彼女は何度か機雷に触れながらもかろうじて生き残った。日本の誇るオーシャンライナーの中でただ一隻。
敗戦後も辛い日々は続いた。彼女は外地から復員する兵士達を乗せ、さらに国内航路も走った。自分の本来の仕事である北米航路に復帰することが出来たのは、1950年(昭和25年)、定期航路への復帰はさらにその二年後であった。船齢20歳を超えても彼女は走った。戦前の海運日本、オーシャンライナーの誇りを只一隻で担った。彼女が行くミッドウェーの沖やアリューシャンの近海は、かつての戦場の海。その海を、彼女は日本再建を担う若き留学生達や、海を渡る宝塚歌劇団の少女達を乗せて走った。1960年(昭和35年)引退。
引退後の彼女は横浜山下公園近くに係留され、高度成長の日本を、ユースホステルや催事場として生きた。その姿はどこか、かつての名優が場末の酒場で唄わされているような哀切なものがあった。幸か不幸か、日本の経済成長の終焉と共に、彼女にもやっと平和な日々が戻ってきた。今は、日本郵船が歴史博物館に併設される展示船として彼女を公開している。これを書いている今日、HPの彼女の写真には「83歳と45日」と記載されている。
2014年7月1日
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たわむ
3月号で述べた「ゆるい」のつづきの話である。
「スマートで目端が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」というのは、戦前の帝国海軍士官のモットーだが、同様の言い伝えがもう一つある。それは「angle bar になるな、flexible wireになれ」という言葉である。これは意訳すると「柔よく剛を制す」ということになる。
angle barとはどういうものかというと、山形鋼という名の鉄の棒である。L字鋼ともいう。
直角に折り曲げられた断面を持つ長い鉄の棒で、撓むことがない。重さの割に剛直である。建築資材に使われる。ピンと突っ張っている。
それに対して、flexible wireの方は、建築・電気用語では「たわみ線」と訳される。細い鋼材を多数撚って線として用いる。代表的なものは、電線、通信ケーブルなどである。flexible wireは、文字通り柔軟な線である。ピンと張っていない。支点と支点の間を、少し撓んで張られる。
それで、加重や圧力を受け止める上では、angle barよりもflexible wireの方が強いというのが船乗りの経験則であったのだろう。遊び好きで、普段は冗談を飛ばしているような士官の方が、戦闘場面になると、日常からしゃっちょこばったり、豪傑ぶったりしているような士官よりも、役に立つというのが、日本海軍の考え方であったのだろう。あるいは心密かに、陸軍はangle barだが、俺たち海軍はflexible wireなのだ、と思っていたのかも知れない。
angle barとflexible wireの対比は、そのまま「益荒男振りと手弱女振り」に通じるところもある。なぜなら「手弱女」の語源は、「たわやめ」即ち「撓む女」だからだ。漢字で女性がたおやかな様を書くと「嫋々」(じょうじょうと読む)となる。まさに「手弱女」であるが、「たわやめ」はなよなよとしているようで、なかなか落ちない女性だったのだろう。
一方の益荒男とは、益荒猛男とか益荒丈夫ともいう。兵士(つわもの)とほぼ同義。狩人、猟師の意味もあるらしい。要するに丈夫な男子のことである。森鴎外訳「即興詩人」に「屈せずして待つが益荒男の事なりと言う」という文言があるとか。西洋の益荒男振りとは、どうも「不屈」というイメージがあるようだ。ちなみに、不屈をあらわす英語Indomitableと「柔軟でない」をあらわす英語Inflexibleは、共に第一次世界大戦の頃の英国海軍の巡洋戦艦の名前で、ほかにInvincible(頑強な、克服できない)という艦もある。どうも日本海軍の師であった英国海軍の方が、益荒男振りが好きだったようだ。
「益荒男振り」と「手弱女振り」を対比して前者に軍配を挙げたのは江戸時代の国学者賀茂真淵で、この場合「益荒男振り」とは万葉集に代表される古代の和歌、「手弱女振り」というのは古今集に代表される中世の宮廷の和歌である。賀茂真淵は主に短歌論として、万葉の男性的な詠み振りを復活させようとしたのだが、そのことが同時に、魔除けのために幼時の皇子を女装させるというような近世の皇室のあり方、「手弱女振りの天皇」への批判につながっていった面もあると、この稿の筆者は思っている。
2014年6月1日
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二重橋
「久しぶりに、手を引いて、親子で歩ける、うれしさに、小さい頃が、
浮かんできますよ、おっ母さん、ここが、ここが二重橋。
記念の写真を、とりましょうね」
(船村徹作曲、野村俊夫作詞「東京だよおっ母さん」)高齢の読者は、島倉千代子の歌ったこの歌をご存じの方も多いと思う。
さて、その二重橋の話である。二重橋と言えば次のような姿と思っておられる読者が大半であろう。
だがこの橋は皇居の「正門石橋」であって、正確には二重橋ではない。
正門石橋の手前は、外部に開放されている。この橋を渡ると皇居の正門があって、そこから先は、一般参賀の時とか、皇居に特に招かれた人等しか入れない(下図の青い丸で囲まれた部分参照)。
正門を入ると、右にくるっとUの字に回って、もう一度鉄橋を渡ると新宮殿前の広庭に出ることが出来る。一般参賀や天皇誕生日参賀などでは、この場所に面したガラスで囲われたテラスに両陛下や皇族方がお出ましになり、国民が日の丸の小旗を振ってお祝いを申し上げる。
さて、正しい意味での二重橋は、現在は存在しない。場所としては現在の正門鉄橋(下図の赤い円で囲まれた場所にある)にかつて存在した橋桁が上下二段、二重の木の橋が、江戸城西の丸の「二重橋」と呼ばれていたのである。この橋は、昭和39年(1964年-東京オリンピックの年である)に皇居新宮殿の造営と共に鉄橋に掛け替えられたとのことである。
木造の頃の二重橋の写真を探したが、見つけられなかった。代わりに、あるブログに木造二重橋の想像図が掲載されていたので、管理者の許諾を得て、以下に転載する。
ちなみに、宮内庁のホームページを見ると、この皇居正門の石橋、門、鉄橋一帯を「二重橋」と総称している様にも見える。二連の石橋を二重橋と思い込んでいる人があまりに多くなったからかもしれない。冒頭に掲げた、「東京だよおっ母さん」の主人公は、おそらく東京駅(この歌の出来た1957年当時、地下鉄千代田線二重橋前駅はまだ存在していない)から幅の広い行幸通りを歩き、内堀通りを左折して、現在の二重橋前交差点から、広い砂利の道を踏んで、母親の手を引いて皇居正門前に至ったのであろう。
「記念の写真」は、二連の正門石橋を背景としたものであったに違いない。2014年5月1日
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箸
銀座通り(中央通り)と外堀通り(通称電通通り)の間、銀座六丁目に夏野という小さなお店がある。商うものは箸。そう、誰もが日常使う日本のお箸である。
箸なんて、最寄りのスーパー辺りに売っていると思う方もあるだろうし、日常そんなに凝ったお箸などは使わず、割り箸やプラスティックの箸でも十分用が足りているという方もおられよう。だが、毎日の食卓で使うものだからこそ、自分の手になじむ良いものを、とお考えの方は是非このお店を覗いてみられるとよい。日本列島東西南北様々な素材のお箸がところ狭しと並んでいる。中には、著名な職人の手になる高価な箸もあるが、だいたいは単行本数冊の値段の範囲で求めることが出来る。さて、本稿の目的は、お箸屋さんの宣伝ではない。銀座夏野店内にPOPの如く天井から下がっていた張り紙が気になったのである。
それは、お箸を手にしてやってはいけないこと、すなわち禁忌のリストである。曰わく「迷い箸、ねぶり箸、叩き箸・・」。思わず真剣にメモをとろうとしたら、店員さんが「これをご覧ください」と、「お箸の豆知識」という紙をくださった。以下はそのリーフレットから引用した、お箸を使う上で「やっちゃいけないこと」のリストである。
「指し箸」箸で人を指す。箸先を人に向ける。
「刺し箸」箸で食べ物を刺す。
「こじ箸」箸で料理をひっくり返して探す。
「涙箸」箸で汁物を食べるとき、ぽたぽた汁をこぼす。
「渡し箸」食器の上に箸を載せる。(食事が終わりましたという意味になる)
「迷い箸」何を食べるか迷いながら食べ物を探る。
「かき箸」箸でご飯をかき込むように食べる。
「ねぶり箸」箸先をくわえる。
「立て箸」ご飯に箸をさして立てる。(仏様に供えるご飯という意味になる)
「持ち箸」箸を持った手で器も持つ。
「叩き箸」箸で食器をたたく。
そのほか火葬の時だけに行う箸の使い方「箸渡し」など、まだまだ禁忌は多数あるのだが、要するに西洋のテーブルマナーにおけるナイフやフォークの用い方に煩瑣なルールがあるのと同様、箸の用い方にも文化習俗的な深い意味があると言うことなのだろう。
ちなみに、我が国の民は、大和時代まで一本箸で食事をしていたのだという。聖徳太子の頃に(仏教と前後して)二本の箸が大陸から渡ってきたので、二本箸のことをわざわざ唐木箸とも言うのだそうだ。
地球上で箸を使うのは、日本、朝鮮半島、中国、モンゴル、タイ、ベトナムなど東アジアの仏教圏と重なる地域、世界人口の約30%とのこと。面白いことに、これらの国々の中で「マイお箸」をはっきりと使用しているのは、なぜか我が国だけらしい。2014年4月1日
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弛い(ユルイ)
時は寿永3年(1184年)1月20日、天下の形勢は西に都落ちした平家、京には朝日将軍木曽義仲、東には鎌倉殿源頼朝。後白河法皇の義仲追討の院宣に応じた鎌倉勢は5万5千余騎。都の搦め手宇治に攻めかかる源義経勢はその内2万5千。大将義経下知すれば、鎌倉の御家人輩(ばら)は対岸の木曽勢めがけて馬を宇治川に乗り入れる。中でも出陣に際して鎌倉殿より漆黒の軍馬磨墨(するすみ)を給わった梶原源太景季が一番乗りをと乗り出せば、追うは近江佐々木源氏の四男佐々木四郎高綱、同じく鎌倉殿より給わった名馬生食(いけずき)にまたがって前を行く景季に呼びかけるには、「いかに梶原殿、この川は西国一の大河ぞや、腹帯の延びて見えさうぞ、締め給へ」。それで梶原が、腹帯を締め直す間にその脇をすり抜けた佐々木がまんまと宇治川の先陣の功を手に入れたという有名なお話し。(平家物語巻第九)
それ以来、日本人、とりわけ常在戦場の武士階級の間では、腹帯のみならず何事も「ゆるい」ということは軽蔑されるようになったのだとか。一方で緊褌一番(いっちょうフンドシを引き締める)などと言って、戦場での緊張感を維持するため、緊縛は尊ばれるようになった。読者の中には、三島由紀夫の晩年、フンドシ一丁で日本刀を持って「益荒男振り」を示したとおぼしき写真を覚えておられる方もあるかも知れない。
さてお話し変わって、精神分析のフロイト学派の用語に「肛門性格」(anal character)というのがある。専門的には「肛門期の発達段階にリビドーが停滞することによって形成される性格傾向」とされているが、要するに2-3歳の幼児に、トイレットトレーニングをあまり厳しくしすぎると「礼儀正しい、せかせか、几帳面、神経質、強迫的、ややサドマゾ」な性格になるというのが肛門性格である。この稿の筆者が1970年代に大学で習った所では、我が日本は、世界有数のトイレットトレーニングを早くから厳しくする国で、日本人にはこの肛門性格が多いのだとか。益荒男振りの緊縛志向と何らかの関係があるかも知れない。
第二次世界大戦において、カミカゼ特攻という集団狂気ともいえる攻撃に直面した米国は、戦後日本を占領すると、日本人の性格改造を試みようとした。自由と民主主義を導入し、戦争放棄の憲法を与え、忠臣蔵をはじめとする仇討ち芝居を禁じ、学校教育でも体罰を禁じて緊縛拘束の「益荒男振り」文化を否定し、クラブ活動などを通じ日本文化のもう一つの側面であった「手弱女振り」の方を奨励した。(幼児教育のあり方も各種の育児書導入などによって戦後大きく変化した)
占領米軍の努力の成果かどうかは知らないが、おかげさまで戦後日本は、ずいぶん「ゆるい」社会となった。それでも、戦後の高度成長期を担った大人達は戦前・戦中生まれで、ずいぶん肛門性格を発揮したものだが、戦後期に幼児教育を受けた世代が社会の担い手となるに及んで、社会や集団の緊張感は次第に失われて、ユニフォーム(制服だけではなく統一された様式)社会から「私服」「多様性」社会へと漸次移行してきた。
人間のバイタリティを一定量の水だと仮定すると、出口のホースを緊縛すれば水は細く遠くに飛ぶ。弛めれば飛距離は下がるが飛ぶ量は豊かになる。どちらがよいかは好みの問題だが、宇治川の先陣以来八百年余にして、やっと日本人も「ゆるさ」の価値に目覚めたのではないだろうか。2014年3月1日
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祭祀主宰者
民法(祭祀に関する権利の承継)
第897条 系譜、祭具及び墳墓の所有権は、前条の規定にかかわらず、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する。ただし、被相続人の指定に従って祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が承継する。
2 前項本文の場合において慣習が明らかでないときは、同項の権利を承継すべき者は、家庭裁判所が定める。お墓は、民法上、相続財産の例外として扱われている。その例外規程が上に掲げた民法897条である。この規程は何を定めているかというと、まずお墓を継ぐ人は一人だけということである。それはどういう人かというと、地域等の慣習によって「跡継ぎ」とされている人(ふつうは長男だが、家業があって女子や次、三男が跡を継いでいるような場合は家業の跡を継いだ人の時もある)である。
ついでに言えば、お墓には相続税はかからない。民法のこの規程は、どういう考えから出来ているのだろうか。通常の相続財産に関する民法規程を援用すると、相続人という者は多数出来ることになる、何代かの相続を繰り返す内には、その数はねずみ算式に増えてしまい、親戚の行き来も途絶えるので、お墓の管理について権利者同士で話し合って決めたりすることが出来なくなる。だからお墓は「本家のお墓」として長子が継いでいき、嫁いだ女子や、年少の男子は別の墓に入るなり墓を買うなりすべきだと言うことなのである。
さらにお墓に相続税がかからない理由は、墓が換金できるものではなく、先祖の祭祀のための祭具(祀るための道具)であるからということになる。お墓を継ぐ人は、その祭具を用いて先祖を祀る責任も同時に継ぐことになる。
一方、たとえば貴方の長男が特定の信仰を持っていて、死後自分を望むような形には弔ってくれないかも知れないような場合、貴方は遺言で別の人を自己の祭祀主宰者に指定することが出来る。この場合は赤の他人の指定も可である。身寄りのない人が、世話をしてくれた第三者を指定することも可能である。もし貴方が先祖の墓の管理者であれば、先祖の墓は子供に、自分の祭祀は第三者に分けて委ねると遺言することも出来る。貴方が特別な宗教の信徒である場合その宗教の関係者を主宰者に指定することも可能である。先祖代々の墓はお寺にあっても、自分だけキリスト教会の墓に入るという人もいる。
だが、主宰者に指定された方が迷惑という場合もある。そこで、民法は祭祀主宰者がどのように祀るかを定めていない。散骨しようが、何をしようがそれは主宰者の裁量である。本家の跡継ぎが、お墓を荒れ放題にしても、罰せられたり課税されたりすることはない。だから、貴方はよくよく考えて、自分が望むように「祀って」くれそうな、信頼のできる人を、自分の祭祀の主宰者に指定しなければならない。そうでないと、(宗教によっては)間違った死後の世界に行ってしまうことになりかねない。2014年2月1日
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スキー
スキーが、1911年オーストリア陸軍少佐、テオドール・エードラー・フォン・レルヒによって、日本にもたらされたことは、よく知られている。
戦前のスキーは、軍事目的(寒冷の山地を滑って行軍する)か、ごく少数の有閑階級のスポーツ(登山または競技)目的としてしか普及しなかった。レジャー、あるいは遊びとしてのスキーが広く普及するようになったのは、第二次世界大戦後のことである。
以下時代を追って、日本人の遊びとしてのスキーについて述べたい。
戦後期(1945-1964)終戦から東京オリンピックまでの時期は、戦前と同様、国民大衆にとってスキーは遠い存在。一部の学生が、登山の一部として、山スキーに興じた時代である。「岩木のおろしが 吹くなら吹けよ 山から山へと われらは走る」という「シーハイルの歌」(作詞:林柾次郎)が歌声喫茶などで歌われた。シーハイルというのは、ドイツ語で「スキー万歳」という程の意味。雪山を行く学生は、スキーの下にシールという滑走防止用の帯をつけて山の上まで(当然のことながら足で)登り、シールを外して長い下山路を一気に滑降した。もちろん営業用ゲレンデやリフトなどは殆どなく、雪山装備の登山者のみが立ち入れる大自然が、スキーゲレンデであった。
高度成長前期(1964-1972)東京オリンピックから札幌の冬季オリンピックまでの時期。猪谷千春のコルチナ・ダンペッツオ五輪での銀メダル受賞(1956)あたりから国内にも普及し始めた、アルペンスキー用のリフトとゲレンデが、この時期日本中に広まった。まだ交通手段は国鉄の夜行列車。宿泊は民宿が主力であった。が、スキーは、高度成長と共に勃興しつつあった日本の中産階級の「あこがれのレジャー」としての地位を確立した。東宝制作の加山雄三「若大将シリーズ」(スイス=1966年とニュージーランド=1969年)などが度々スキーを取り上げたのもこの頃である。
高度成長後期(1972-1993)札幌オリンピックからバブル崩壊までの時期。アルペン用のゲレンデスキー、リフトとゴンドラという道具立ては変わらないが、宿泊施設は、西武・国土資本などのホテルが民宿に代わり、交通手段は、在来線の鉄道から新幹線と自動車に代わった。このことは、東京都内から夜行に乗らずに、半日以内でスキー場に到達し、その日の内に滑ることが可能になったことを意味する。この時代のスキーを象徴する映画が「私をスキーに連れてって」(1987年製作:ホイチョイ・プロダクションズ、主演原田知世)。スキー場へ着くまでの高速も渋滞、スキー場に着けばゴンドラの乗るまでに1時間以上かかるというような、まさに大衆スキーの絶頂期であった。
バブル崩壊後(1993-現在) スキー市場は、日本経済の長期低落傾向と、中産階級の再分化にまさに軌を一にして、低落、低迷していった。1998年に開催された長野オリンピックも、日本経済低迷への歯止めとはならず、スキー人気の向上にも効果をもたらさなかった。スキー界の覇者、西武・国土資本のオーナーであった堤義明が総会屋への利益供与や、インサイダー取引を問われて引退に追い込まれたのは2004-5年のことである。1993年以降出現したスノーボードを併せても、レジャー産業としてのスキーの売上は、低落にまだ歯止めがかかっていない。最近の傾向としては大衆のスキー離れと言うよりは、むしろ若年人口の減少とスキー不振との相関が指摘されている。
ともあれ、スキーは戦後日本の中産階級と運命を共にしてきた遊びだということは言えると思う。
2014年1月1日
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グローバル人材
最近、「日本はグローバル人材を育成しなければいけない」、ということがよく言われる。
直訳すれば「地球的人材」。なんだか分かったようで、分からない言葉だ。要すれば、日本人でありながら、国際社会に通用する人材と言うことなのだろう。
そういう人材が必要だと言われるからには、逆に言えば、今の日本には、国際社会に通用し、我が国の政治的、経済的立場を海外にもの申すことが出来る人が、いかにも少ないと言うことなのだろう。然らば、グローバル人材とは如何なる人なのか。昨年出された、政府の「グローバル人材育成会議」中間報告なるものを覗いてみよう。 (注1)要素Ⅰ:語学力・コミュニケーション能力
要素Ⅱ:主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感
要素Ⅲ:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー
このほか、「グローバル人材」に限らずこれからの社会の中核を支える人材に共通して求められる資質としては、幅広い教養と深い専門性、課題発見・解決能力、チームワークと(異質な者の集団をまとめる)リーダーシップ、公共性・倫理観、メディア・リテラシー等を挙げることができる。なるほど。このような人材は、日本広しといえども、それ程たくさんはいないはずだ。
が、今頃どうして?と考えてみるのは無駄ではあるまい。今頃こんな人材を育成しなければならない、などとお偉方が言い出したのには、理由がある。一言で言えば、日本が世界の中で「影が薄く」なってしまったのだ。「存在感が薄れた」くらいではない、「尊敬されなくなった」でもまだ足りない。「無視されるようになった」くらいが今日の現実にあっている。それも、何か日本に瑕疵があって無視されるようになったのではない。
世界の人々が日本の存在に「気がつかなくなって」しまったのだ。
バブル期以前、ヨーロッパでも、アメリカでも歩いているアジア人は半数以上日本人であった。今日では、韓国人や中国人の天下であって、日本人はたまに見かける程度である。日本と先進諸国の貿易がなくなってしまった訳ではない。が、製品をたくさん買ってくれるお客は中国人、インド人。資源や労働を安く買える国は、多数の途上国であってもまず日本ではない。
それより何より、「日本ったら何にも言わない国なんだもん」になってしまったのである。
この稿の筆者は、年に何回か、同じテーマの国際会議に出席している。が、その席で、筆者よりも英語の出来るはずの同僚日本人達が発言するのを耳に出来る機会は、極めて僅かである。耳に英語は聞こえても、彼らの態度はひたすら「情報収集」。たまに筆者が発言を求めて挙手するのを、珍しい動物をみるように眺めているだけ。列席の中国人、インド人が下手くそな英語でまくし立てるのに比べて、温和しいというか、静かというか・・これは、ただ単に英語力の問題ではない。満座の中で、その席共通の価値観にもとづいて、自己の利害を説くことが出来るか否かの問題なのである。今から人材など育成しても、世界が日本の存在を思い出すのに何年かかるだろうか。
(注1)
首相官邸ホームページ/グローバル人材育成推進会議/中間まとめ
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/global/110622chukan_matome.pdf2013年12月1日
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寄付
本誌は、税理士法人の機関誌。その中で、本欄と隣の欄は税金のお話を離れて一服するのが役割になっている。が、今月は、かなりの程度に税金に近い話をとりあげてみたい。
それは、寄付ということについてである。我が国の所得税法が、寄付金控除の対象とするのは、概ね「教育又は科学の振興、文化の向上、社会福祉への貢献その他公益の増進に寄与するための」(ほかに震災義捐金などもある)のもので、寄付先は、政府やら地方自治体やら独立行政法人といったオカミ族を別にすれば、特定公益増進法人、私立学校、社会福祉法人、NPOの一部などに限られている。
読者は、「こうした相手に寄付をすると、所得税を負けてくれる」とお考えかもしれない。
確かに考えようでは、「寄付をすれば税金が安くなる」と言えないことはない。すなわち寄付した金額の内一定の分(控除するのは合計所得金額の40%以内とか、2000円までは控除しないとか細かい規則はあるのだが)は、要するところ所得税の対象とならない(その年の貴方の所得金額から控除される)。税金を取る側から見れば「負けている」のである。
だが、「控除」というのが曲者である。税金が安くなるとは言っても、それは「何もしなければ払ったはずの所得税より安くなる」と言うだけの話で、「寄付した金額+支払う所得税」は我が国の税制では必ず「何もしなければ払ったはずの所得税」より高くつくことになっている。このことはどういう発想から来ているかというと、要するに「オカミが税金を用いて行う事業の方が、民間のボランティアが行う公益的な事業よりもより価値が高い」という考えから来ているのだ。
本欄の筆者が提案したいのは、上記のようなオカミ優位の考え方をやめて、国民一人ひとりが、「自分が最も公益的と思う事業」を選んで、自分の選んだ公益事業に一定比率の所得税を寄付できるようにしたらどうだろうか、というものだ。
国防が大事と思う人は、兵器の購入に自分の払うべき所得税の5%を、東北の復興が大切と思う人は沿岸部の住宅移転に5%を、科学技術の振興が必要と思う人はスーパーコンピュータの開発に5%を、原発反対の人は代替エネルギーに5%を、と、自由に政策を選べるようにしたらよいと思うのだ。
もちろん寄付と言っても、自分の私的利益への我田引水はいけないから、公益的事業のメニューはある程度予め決めておかなければいけないとは思う。が、国家、地方自治体の事業ばかりでなく、ボランティアが行う民間の事業もメニューには当然加えることにする。
そうすることによって、たとえば、「景気が良くなってほしい」からと言って「道路や橋を造る」のがよいのか「技術開発への投資」がよいか、「福祉のための税金還元」がよいかを我々は自分の頭で考えなければならなくなる。ぶつくさ文句を言いながらも、結局オカミの言いなりなるのではない、ほんとうの国民主権への第一歩として提案したいのである。
役人や政治家が、勝手に国家予算を按分するのではなく、ある程度国民が直接「自分が払う税金を何に使うべきか」を選択できるような制度があってもよいのではないかと思う。2013年11月1日
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羽化登仙 酔生夢死
いずれも、酔っぱらいをあらわす四字熟語である。「羽化登仙」とは、酒を飲んで良い気持ちになること。酔っぱらった結果、自分に羽が生えて天に昇り、仙人の境地に遊ぶ気分になることを言う。宋の詩人、蘇東坡こと蘇軾の有名な作品、「前赤壁の賦」の冒頭に出てくる言葉である。
壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。浩浩乎如馮虚御風、而不知其所止、飄飄乎如遺世独立、羽化而登仙。於是飲酒楽甚。扣舷而歌之。歌曰、桂櫂兮蘭漿。撃空明兮泝流光。渺渺兮予懐、望美人兮天一方。
「羽化登仙」の前後だけ読み下す。
浩浩乎トシテ虚ニ馮リ風ニ御シテ、其ノ止マル所ヲ知ラズ。飄飄乎トシテ世ヲ遺レ独立シ、羽化シテ登仙スルガ如シ。是ニ於テ酒ヲ飲ミテ楽シムコト甚シ。舷ヲ扣イテ之ヲ歌ウ。
広々とした長江に舟を浮かべて遊んだ蘇東城は、舟上客と酒を酌み、ふわふわと幽体離脱したような気分になっている。だんだん酒がまわって、大いに良い気分になって、舟縁を叩いて拍子を取って歌をうたったということらしい。宋の元豊5年(西暦1082年)の秋7刀16日の夜のことである。中国の詩人の例に漏れず、蘇軾は、宋の役人である。この時代の宋は、王安石の新法改革というので政治は大混乱。蘇軾は旧法派で、お定まりの左遷を喰らって、地方をドサ周りしながら、今に残る詩の数々を創作した。
「酔生夢死」は、全く同時代の宋の思想家程頤(ていい)の『明道先生行状記』の中にある言葉。
雖高才明智、膠於見聞、酔生夢死、不自覚也
高才明智ト雖モ 見聞ニ膠スルハ 酔生夢死シテ 自ラ覚ラザル也
「見聞ニ膠スル」の膠と言う字は、「こう」と読む。「にかわ」のことで、膠がくっつくようにこだわるという意味である。「才能が高く、智の明らかな人であっても、自分の見聞にこだわる(ような者)は、一生を酔っぱらいのまま過ごして、夢を見ている内に死ぬようなもので、自ら(真理を)覚らないまことにつまらない生き方である」と程頤先生は言われている。この時代の宋は、まもなく朱子学や陽明学がでてきて、儒教の「哲学化」が起きようとする時期。程頤先生は、朱子学の祖、朱熹に大きな影響を与えた先覚者である。程頤と蘇軾は、面識があったようだ。Wikipediaによれば、宋の皇帝哲宗の侍講に就任した程頤は、「性格が謹厳に過ぎその非妥協的な言動が同僚との軋轢を生じ、特に蘇東坡やその門下生と争い、まもなく朝廷を追われた。」とされている。
それはともかく、「酔生夢死」とは、そんなにつまらないことであろうか。この稿の筆者は、この言葉が大好きで、書き初めなどの際は、選んでこの四字熟語を書く程である。「一生を酔っぱらいのまま過ごして、夢を見ている内に死ぬ」なんて、こんなに素晴らしい人生はないと思うのだが。
筆者としては謹厳実直の程頤先生より、酔っぱらい詩人の蘇軾の方に軍配を揚げたい。2013年10月1日
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冥土
あの世の話である。
民族、宗教によって、あの世の捉え方は様々に異なる。 我が国の神話では、あの世は黄泉の国、あるいは常世の国とも言う。黄泉の国は、黄泉比良坂(よもつひらさか)を通じてこの世とつながっている。イザナギが死んだ妻イザナミを追いかけて冥土に行き、変わり果てた姿に驚いてこの世に戻ってきた時には黄泉比良坂を駆け下りてきたことを示唆する記述がある由なので、通常考えられているように黄泉の国は地下にあるのではなく、雲の上にあるのかもしれない。が、いずれにしても、黄泉の国はひんやりとして暗いところだというイメージがある。この、暗くてひんやりというイメージは、ギリシア神話のプルートーが支配する冥府なども同様である。なお、これら神話の冥府は、勧善懲悪の倫理とは関係がない。すなわち生前悪事を為した者は、死後より酷い来世が待っていることを示すものではない。が、これが宗教となると、はっきり現世の行いの善悪が、来世に影響を与える。
もっとも、よく知られているのは、キリスト教の「最後の審判」で、この世に終わりがくるとき、すべての死者は再度全能の神の前に生まれ出でて、この世で為した行いについて審判を受けるのである。
審判の結果によっては、永遠の生命を与えられたり、地獄に落とされたりもする。
イスラム教もほぼ同断であり、アラーはこの世に終わりがくるとき、天使イスラフィールに命じてスール(喇叭のようなものらしい)を吹き鳴らさせる。で、そのスールの音と共に、アラーに望まれないものは消えてしまい、望まれた者だけが来世アーヒラの生命を得るのだという。
あの世について、もっとも複雑なことを説くのは、仏教である。仏教も宗派によって、あの世の捉え方は違うが、基本的なコンセプト天上道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道は、皆この世にある世界であって、生きとし生けるものは皆、この世の行いによって死後六道のいずれかに生まれ変わる、すなわち転生するのである。転生した者は、過去の生命の記憶を持たないのであるから、どうして転生したと証明できるのか、疑問があるところだが、ともかく前世の因果が、この世に応報するということになっており、さらに現世の因果は来世に応報するのである。もし今の世を生きていて「自分はなぜこんな運命なのか」あるいは「なぜこんなに幸せなのか」とか思うとすれば、それは皆前世の行いの応報なのである。
そうやって、死んでは転生する輪廻を繰り返す生命の営みに「やりきれない」「やってられない」と思われる向きもあるだろう。輪廻そのものを苦悩ととらえ、その輪廻から脱出しようとする試みを解脱という。解脱したらどうなるか、は、あまり詳しくはわからない。が、どうも「涅槃寂静(ねはんじゃくしょう)の境地」に入って、ずっと落ち着いた心でいられるというのが、悟りであり解脱であるらしい。
「大般涅槃経」では、煩悩の炎を消して無我無常の境地に入ることが、悟りであるという。 キリスト教の天国は「酒はうまいしネエチャンは綺麗」なのかどうかは知らないが、まあ現世の善行の代償に煩悩が満たされる世界のようだ。が、仏教のそれはむしろ、まあ芸能人が引退して有為転変のドラマから脱出し、普通のくらしに戻るイメージに近いかもしれない。2013年9月1日