お役立ち情報
COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
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自転車レーン
十年ほど前、オランダのアムステルダムの町に泊まったときのこと。
朝、ホテルから外に出てみると、都心の賑やかな通りの道端が、幅数十センチほど、鮮やかな色に塗り分けられているのを発見。その色のついたレーンを、多数の通勤自転車がすいすいと行くのを見て、初めてこれが自転車レーンというものだと、気がついた。
その後、東京でも時々自転車レーンを見かけるようにはなったが、アムステルダムのように、どの車道にも自転車レーンが設けられているというのではなく、おや、こんなところに自転車レーンがある、という感じで、道によほどの余裕幅があるか、あるいは休日の運動用など、市民の健康のための自転車コースに限って設けられているようだ。
と、思っていたところ、最近たとえば、環状八号線とか、世田谷通り、甲州街道の一部などに、ちゃんとした自転車レーンではなく、一番左の車線に白いペイントで何だかやっつけのように、忽然としかも小さく点々と自転車の絵が描いてあるのを、発見。
自動車の運転をする立場からは、このマークが道に描かれていたからと言って、何をしたらよいのか分からず、つまり、元々自動車用の車線に自転車は走っているのだから、別に、あらためて自転車優先の意味でマークが描かれているわけでもなかろうし、まことに迷惑なことだと思いながら走っている。
自転車はエコだ。自転車は健康によい。だが、正直に言えば、日本の都会の道で、自転車が走るくらい迷惑なことはない。そもそも、自転車が歩道を走れば、人間と自転車が錯綜して、人間が危ない。最近はお年寄りの歩行者を自転車がはねる事故も多い。だから道路交通法では、原則自転車は車道を走るべし、と言うことになっている。
だが、例外的には、「安全のためやむを得ない場合」自転車が歩道を走ってもよいことになっていて、どういう場合が例外なのか、それがよく分からない。
一方車道を自転車が走れば、速度が自動車と明らかに違うので、同じ車線を走ること自体が危険である。前記した環状八号線とかの幹線道路では、道端にトラックなどが停車していると、自転車はふらふらと真ん中の車線に出てきてしまう。それはそれで仕方がないことなのだが、車道の真ん中に出てきた自転車は、中央車線の左側を走るとは限らず、勝手自在に車線の好きな部分を選んでジグザグと走る。おそらく自転車の方もどれがルールに適った走り方か自分でよく分かっていないのではないか。
結論として、都会の幹線道路では、荷物の積み卸しなどのための駐停車を全面禁止にすること、そして、そのことを前提に、三車線の道路の車線の幅を少しずつ詰めて、ちゃんとした自転車レーンを設け、半端な自転車マークはやめてほしい。
2018年6月1日
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宝くじ
以前の本欄で、麻雀の役作りにこだわる話を書いたことがある。
麻雀を、競技、博打と考える人にとっては、ゲームに「勝つ」ことがゴールである。勝つためには、こつこつと一局ごとに、他者よりも早く、ほどほどの値の役で上がり、逃げ切るのが常道なのだ。が、勝つことより、「美しい役で上がる」ことに魅せられて、リスクを冒し、大三元とか国士無双とかいう、高値の役作りに挑むことを以て良しとする人がいる。それは人類のDNAの中に潜在する「自己目的化」という因子の為せる業であるということを書いた。
自己目的化とは、どんなことかというと、たとえば、生命維持のための「食う」という行為が自己目的化すると、味にこだわる「グルメ」というものになり、最後は食器や佇まいなどという栄養摂取とは何の関係もないものにまで気を配り「食の文化」を求めるようになる。あるいは、「種の保存」のためにあるはずのセックスが自己目的化すると、恋愛を通じて異性を恋うようになり、さらに嵩じると、それがプラトニックラブとか同性愛であるとか「種の保存」に結びつかない「愛」というものに昇華し、さらには相聞歌、指輪の贈答といった「恋愛文化」の創造に至るのである。
さて、今月は宝くじのお話である。宝くじを、賭博の一種と考えると、こんなに割に合わない博打は世の中に少ない。競馬、競輪、オートレース、競艇などの公営賭博は、おしなべて約75%の還元率(運営者の寺銭部分が25%)であるのに対して、宝くじなど「くじ」の還元率は、だいたい5割弱くらいである。この、割に合わないものが何故売れるかというと、宝くじは、他の公営賭博に比較して、一時に得られる配当金の額が、著しく高いのである。たとえば競馬で万馬券が出たと言えば、相当珍しい出来事だが、万馬券は100円馬券の100倍に過ぎない。ジャンボ宝くじは、前後賞を置いても、300円のくじで5億円だから約166万倍である。「一攫百万金を得たら、何をしようか」と「夢を見る」そのプロセスに1枚300円を投じるのは、けっして高価とは言えない。ただし、当たる確率は競馬などより著しく低い。
つまりは、宝くじは、それで配当金を得るのではなく、「配当金を得たら」という夢を見る人が買うのである。宝くじを買う人は、当籤しなくても、くじを買った瞬間から当たり番号の発表までの間に、「当たったらこうしよう、あれを買おう」と想像を楽しむことで、元を取っていると言えるわけである。
公営賭博に淫する人は、レースの瞬間の興奮のために馬券や車券を買うわけだが、宝くじの楽しみはもっと高踏的なものなのである。これこそ人類的DNA自己目的化の病と言わずしてなんであろう。宝くじを買う人は、人類の中でも動物に近い人ではなく、より「文化的な」人類なのだとは言えないだろうか。
参考までに
2018年5月1日
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桜海老
桜海老漁の漁期は、10-12月と、3-6月。桜海老の名所、静岡県由比の漁港では、3月21日が春の桜海老漁解禁日である。桜海老祭りは、毎年5月3日だとか。
生きている桜海老は、透明で、甲の部分に、ピンク色がかかっている。ゆでると鮮やかな色に染まる。昼間は水深200-300mのところに沈んでいるが、夜になると水深20-50mくらいまでに浮上してくる。体長は約4cm。小柄なエビである。
桜海老漁の歴史は、比較的浅い。1894年(明治27年)のこと、駿河国は由比の漁師が、鰺の網引き漁をしていたところ、網が海底の方に深く潜ってしまった。それで偶然海底から大量の桜海老が捕れたのが、漁の始まりだそうだ。日本では、主に駿河湾、相模湾、東京湾に生息しているが、由比と大井川の漁港に属する漁船100隻だけが桜海老の漁業権を持っている。したがって国内の漁で獲れる桜海老は、みんな駿河湾の桜海老である。
桜海老は、生きたまま輸送するのが難しく、静岡県外では、なかなか生の桜海老を食べることができない。だいたいは、ゆでて釜揚げにするか、干して干し海老にするか、あるいは冷凍した加工食品として県外に出て行く。
桜海老は、和食、洋食、中華にこだわらず広く食材として活用することが出来る。
まず、和食について言えば、もっともポピュラーなのは、桜海老のかき揚げであろう。ふわっとした食感とかみしめたときの意外に濃厚な味わいが絶妙である。そのほかに、和食では、雑炊や炊き込みご飯の具材、わさび醤油でそのまま食べるなど、多種の食べ方がある。クックパッドを見ると、空豆や枝豆と桜海老の炊き込みご飯を推奨している人もいる。味付けは白だし汁がよいのだとか。変わったところでは、お好み焼きの具材としても美味しくいただける。さっぱりしたところでは、野菜のおひたしに添える脇役としての桜海老も無視できない。
中華について言えば、なんと言っても桜海老の炒飯が、代表選手。炒飯のパートナーとしては、レタス、大根の葉、セロリ、高菜、ネギなど様々な工夫が可能である。そのほかに、桜海老の入った焼きそば類が各種ある。桜海老は、炒め物にも使えるので、いろいろな中華風炒め物の具材としても活躍できる。
洋食としては、パスタがよろしい。この稿の筆者の得意料理として、春キャベツと桜海老のペペロンチーノというのがある。鎌倉に住んでいた時に工夫した、海辺の春の一品である。オリーブオイルと鷹の爪でいただく。 そのほか、桜海老と緑アスパラガスの炒め物など温野菜の添え物として、あるいは生野菜サラダの具材としても美味しくいただける。
以上を要約するに、桜海老は、塩味の効いた良質のタンパク源として優秀であるが、いわゆる主役として過剰な自己主張はしない。いつも主食とともにある、控えめな名脇役ということが出来るのではないだろうか。
2018年4月1日
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セレブ
セレブは、英語のcelebrityの略。高名とか、名声という訳がある一方で、有名人、名士という意味で使われることもある。有名人の場合の複数形は、celebritiesとなる。
さて、日本でセレブというのは、どういう人たちのことなのだろうか。本誌1月号が取り上げている秋川滝美という若い作家の著作に、「いい加減な夜食」シリーズというのがある。主人公の佳乃という女の子が原島財閥総裁原島俊紀というイケメンのセレブの独身男性の屋敷に掃除のアルバイトで入って、偶々作った夜食のリゾットが気に入られて、夜食係に採用され、次第に気に入られて、秘書となり、妻となり、母となりという料理ものシンデレラストーリーである。主人公の佳乃はとてもチャーミングに描かれており、女の子の内面も、この作家らしいリアリティをもってよく分析されている佳作なのだが、欠点を上げるとすれば主人公の相手役原島俊紀のセレブぶりがなんとも嘘くさい。
原島俊紀は都心の広大な屋敷に、バトラーとシェフなど少数の家事スタッフと共に住んでいて、その屋敷では、折々園遊会みたいなものが開かれ、同じくセレブの方々が訪れて舞踏に興じたりなさるというのだが、今日そんなことをしているセレブ家族があるとすればもはや絶滅危惧種である。そもそも「原島財閥総裁」なる設定自体が、今の日本では存在しない設定である。日本の三井、三菱、住友などの旧財閥は、マッカーサーの指令で「解体」されてしまい、今日、三井、岩崎、住友といった姓を持つ家族は、実在しそれなりに裕福には暮らしているが、韓国のヒュンダイやサムスンのごとく経済的な実体としての企業を所有してはいないし、旧財閥系企業を支配する権力も持っていない。現在日本の大企業支配者は、殆どの場合サラリーマン社会を勝ち上がった高級勤め人に過ぎないし、株式の所有者は圧倒的に個人より法人の機関投資家である。
以下、日本のセレブの変遷について、この稿の筆者の知る所若干を記しておきたい。
明治から戦前に至る帝国時代の日本には華族というセレブの正統が存在した。約千家族くらいが法律上の身分として、爵位を持っていた。華族の中身は、江戸時代までの公卿と大名、維新の元勲の子孫、そして爵位の低い方は明治以後の官吏や軍人で功績のあった者の子孫が多い。現在なお、日本の庶民一般が持っているセレブイメージ(都心の広大な屋敷、舞踏会、狭い範囲の通婚、皇室との近さなど)はこの旧華族の文化に由来する所が多い。次いでは旧財閥、資本家の類。この稿の筆者が入社したごく普通の大企業でも、戦前役員の給料は一般労働者の百倍の桁、給与袋の封筒が縦に立ったと言われていた。この種のセレブも財閥解体でほぼ絶滅した。戦後企業の実権は、受験戦争を勝ち抜き社内競争で出世した一代学卒のエリートに移ったが、この人々は富裕とは言ってもセレブと言えるほどではなく、財力を持っていたのはむしろ都市近郊の土地持ちの方であった。
21世紀に入ると又ヘゲモニーの交代があって、現在人も羨むセレブリティは、外資系金融機関に勤めるディラーの類かホリエモン型のベンチャーの成功者である。この人々の習俗は、専用ジェット機、企業買収などアメリカのエリートの真似である。が、文化の深みにはやや欠けるような気がする。
2018年3月1日
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パブ
はじめに、「英国の食い物はまずい」という俗説への反論から書き始める。
この稿の筆者に言わせれば、そのような偏見を流布したのは、世界の料理大国フランスの人々とその与党であろう。だが、フランスとイギリス、パリとロンドンの食い物の違いは、いわば京と大阪のそれになぞらえることが出来る。上流階級が食する高級料理といえばパリのミシュランの星が付いたレストランや京都の料亭が思い浮かぶ。が、庶民の食するものは、たこ焼き、お好み焼き、串揚げ、ホルモン等々どれをとっても、食い倒れの町大阪に軍配が上がるように、英京ロンドンでは庶民の食い物が美味しいのである。
この稿の筆者は、その昔ロンドン育ちの日本人のお嬢さんとお付き合いがあったのだが、「ステーキ・アンド・キドニーパイの味を知らないで、ロンドンの食べものをうまいとかまずいとか言わないで欲しい」と言われ、英国の巷のパブで、厚手のパイ生地の中にグレービーたっぷりのソースと、牛肉と牛の腎臓が(まさにもつ煮込みよろしく)沈んでいるものを食して、なるほどと納得した。このパイのお相手には、エールかスタウトという上面発酵酵母を用いた黒ビール(日本で有名なのは「ギネス」だろう)がよろしい。
そのお嬢さんのご指導よろしきを得て、筆者はすっかり英国のパブが好きになり、英国滞在中通い詰め、しまいには「明日死ぬと言われたら、最後の晩餐はローストビーフのサンドイッチにギネスを半パイントかな」などと考えるようになった。パブというのは、英国の飲み屋のこと。Public Houseの略なのだそうで、Private Clubの反対。通りすがりの人が誰でも入ることが出来て、「知らぬ同士が、小皿叩いて、ちゃんちきお袈裟」の世界である。その昔は、上流の人も下流の人も、みんなパブに飲みに来たそうで、1階が立ち飲み屋、2階がゆっくり静かに座ってお話しが出来るスペースとかに別れていたのだそうだが、「ゆっくり静かに」の方は、次第にレストランや倶楽部となって上流階級付きで独立していき、前世紀の初め頃までには庶民の立ち飲み区画が残ってパブと呼ばれるようになったのだそうだ。まあ、今でも大きなパブに行くと片隅に「ゆっくり静かに」の名残のような、「この先紳士用」みたいな間仕切りが残っていたりはするのだが。
さて、パブは立ち飲みであることの他に、二つほど際だった特徴がある。一つは、cash on deliveryという支払い方法。要するに、注文の都度ビールや料理の一杯一皿と引き替えに現金で支払うのである。もう一つは、buying a roundと言って、一グループの一回の勘定は、ある特定の人物が持つという習慣。なんでも、対等な仲間内では、毎回勘定の持ち主を輪番制にしてつじつまを合わせるのだとか。言い忘れたが、パブの主たる飲み物は、もちろんビールである。ビールにも、ピルスナー、エール、スタウトなどいろいろなタイプがあって、昨今は多数のブランドを取り揃えている店が増えてきている。
最後に、もう一つ筆者の大好きなパブの料理を紹介しよう。それは、ploughman lunch。直訳すれば「百姓の昼食」。パンとチーズと野菜とピクルスで一皿、それと半パイントのエール。質素きわまりない農民の昼食のようだが、これが何ともうまい庶民の味なのである。
2018年2月1日
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ひれ酒
その昔、三倍増醸清酒というものがあった。いわゆるアルコール添加清酒のことで、日本酒本来の醸造によって生まれたアルコールの二倍程度に当たる醸造用アルコール(焼酎などが主成分と言われる)を加えて、アルコール度を高め、「酔いやすく」した清酒である。
第二次世界大戦後、多数の兵隊さんが外地から復員し、あるいは旧植民地などからも多くの日本人が引き揚げてきたため、日本国内の人口は急増した。一方で、食糧としての米の需要に対して戦争で食糧生産は減少し、米の需給は逼迫、本来であれば日本酒など醸造している場合ではなかったのである。が、庶民は敗戦の憂さと明日への不安を酒で紛らわそうとして「すぐに酔える酒」を求めた。
そこで、米で醸造した日本酒と同じ程度の醸造用アルコールを水で希釈して注入し、エキスの足りない分はブドウ糖、水飴などで味を調えたものが三倍増醸清酒である。
その名残で、1970年代までの酒税法による特級、一級、二級の日本酒の別では、より高級な酒にアルコールの添加を認めており、今日の純米醸造、大吟醸などの日本酒は、いわば規格外の酒としてわざわざこの格付けを拒んで、二級酒として売られることが多かった。
そういうわけで、三倍増醸清酒というものは、戦後の食糧不足を反映した、いわばゆがんだ酒税法によってつくられたまがい物の日本酒であったのだが、そのまがい物を、ホンモノの清酒に変えてくれる魔法があった。それこそが「ひれ酒」である。ふぐや鯛の鰭を炙って軽く焼き目をつけ、それを蓋のついた湯飲みなどに入れて上から酒を注ぐと、程なくひれ酒が出来る。飲む前に、湯飲みの蓋の下にたまったアルコールを含む気体に火を点じて一瞬炎が立つのを見てから、ゆっくりと熱々の燗酒をすすると、鰭の生臭さが消えて、しっかりとしたふぐの味が酒にうつり、しみじみとおいしいひれ酒をいただくことができる。こうして飲むとまがい物の日本酒も、天の恵みに思えたのだそうだ。
鰭の炙り方については、焦げ目がつくまでしっかり焼くと書いてあるサイトもあるが、焦げ味が風味を損なうので、この稿の筆者の好みを言えば、軽く焼き目がつく程度に炙ったものがよいように思う。
今日のひれ酒は、もちろん三倍増醸清酒ではないが、戦後ひれ酒にすることによってまがい物の三倍増醸清酒であっても美味しく飲めたことからも分かるように、ひれ酒用の日本酒は、あまり吟醸、大吟醸を問わない。と、いうよりも冷酒向きのあまり微妙な日本酒をひれ酒にしてしまうと、その酒の良さが分からなくなってしまう面もあると思う。
「とらふく」の本場山口県下関市の下関酒造では電子レンジであたためるか、湯燗をして飲むひれ酒そのものを販売している。一方で同社は、鰭と酒を別売りもしている。その別売りの日本酒の銘柄は「関娘」と言って、熱燗に適した日本酒のようだ。いずれにしても、ひれ酒はかなり温度の高い熱燗で飲むものなので、酒屋さんで「熱燗にするとうまい酒」と言って買ってくるのがよいだろう。鰭そのものは上記下関酒造のサイトや、熊本県の天草海産のサイトなどから購入することが出来る。
天草海産:https://www.amakusa-kaisan.co.jp/ec/user_data/fugu_enjoy_sake-entry02.php
下関酒造:http://www.sekimusume.co.jp/shopbrand/hiresake2018年1月1日
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型
今から、40年ほども前のこと。この稿の筆者は、大学の卒業旅行に出かけ、ロンドンの親戚Iさんの家に世話になっていた。Iさんは、東大ラグビー部の出身で、海外遠征で英国にやってくる後輩たちの面倒もよく見ていたようだ。そんなIさんの家の常連客の一人に、F君という、私と同年輩の有名なラグビー選手がいた。F君の大学ではそのころちょっとした不祥事があってラグビー部が休部となり、F君は一人で英国にラグビー留学をしていたようだ。
ある日のこと、F君と話していると、彼がしみじみとこう言った。「自分は、英国のクラブチームに入ってみて、初めてラグビーの楽しさがわかったような気がします。」「練習の量なんか、日本の大学チームのほうがずっと多いのですよ。」「こちらのチームには先輩後輩もない。なにか毎日楽しく遊んでいるみたいで、でもゲームになればずっとこちらのチームのほうが強いのです。」それから、私たちは、なぜ日本の大学ラグビー部より、イギリスのクラブチームのほうが強いのかを、語り合った。体格、技術、伝統などあれこれ理由はあるかもしれないが、要するに「こちらの方が楽しい」とF君はいうのだ。楽しいから、短い練習時間でも、チームがみんな生き生きとプレーし、試合になればめっぽう強いのだ、と。
F君も、私も、少年時代はいわゆるスポ根漫画で育った世代だ。「巨人の星」の星飛雄馬が、涙を流しながら、うさぎ跳びを繰り返し、大リーグギブスでおのれを鍛えるのを見て育ったのだ。日本の運動部の練習では、球技でも、剣術や柔道でも、練習は先ず「型から入る」のが常道で、ロクに型も覚えないうちからゲームを楽しもうなどと考える者は「十年早い」と排斥されたものだ。
パスやキャッチボール、素振り、千本ノック、うさぎ跳び、いずれも「楽しくない」。型を覚える苦しい努力を長い年月繰り返した人が「先輩」で、したがって先輩は技量の有無にかかわらず、その努力の長さの故に尊敬しなければならない。日本の運動部全体が、そのような型を覚える努力の長さに基づく上下関係によって成立しているのである。生まれながらに運動神経などまるでなく、スポーツ音痴だった筆者は、中学生の頃に一年ほど運動部をやってみたものの、その文化になじめず、すぐにやめてしまった。だが、あらゆる意味でスポーツ天才少年だったF君が、日本の運動部社会を生き抜いて、トップ選手になっていくには、ずいぶん複雑な思いがあったのではないか。
さて、何ごとも「型を覚える」のは「ほんものを極める」ための重要なプロセスではある。が、スポーツであっても、芸能であっても、人間が「型を覚える」ことに真剣になるためには、まずスポーツや芸能の楽しさという「動機付け」が必要なのではないか。たとえば、山登りを想定すると、小さい山の頂上を極める楽しさを知らずに、「型から入って」高い山を登ろうとすれば、苦しいだけなのではないか。
平たく言えば、楽しさを知らずに「型を学ぶ」のは、かえってその道の大成を妨げると思うのだ。
では、何故日本には、このようなスポ根文化が定着してしまったのか。それは世襲ということと関係があると、この稿の筆者は思っている。剣術、歌舞伎等々日本的修行文化の元となったのはみな世襲の職業である。立派な武士になる、親を継ぐ役者になる、つまり「世襲」という動機によって、「楽しさ」という動機を置き換えることができたからこそ、「型から入る」修行に耐えられたのではないか。そう言えば、「巨人の星」も、ある意味で父子の野球世襲の物語であった。
2017年12月1日
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俳壇
江戸時代のこと。士農工商と言った身分から、やや離れたところに、現代で言えば自由業にあたる一連の芸事の師匠という職種があった。
それらの中で比較的安定していたのは、武士に必要な芸を教授する職で、剣術、槍術、弓術などの師範、漢学塾の先生などがこれに該当する。和歌、料理などはこの時代既に古典芸能で、冷泉家、四条家などと言う京都の皇室由来のお公卿さんが家元になって印可という名の権威を与えることになっていた。かわったところでは、相撲もこの皇室由来の芸の一つで、吉田司家というお公卿さんが日の下開山横綱を許すというタテマエになっていた。
次いで、お茶、お花、踊り、三味線など戦国期以降発達した芸事の場合も、江戸期の間に家元制度が確立して、家元が芸名を与え、あるいは師匠として活動することを許可すれば、その人はそれなりに芸事を職業として食べていくことが出来た。
そうした中で、最も貧乏で不安定だった職種の一つが、俳句の宗匠である。松尾芭蕉、小林一茶などの伝記を読めば、この人達が殆ど一生地方を放浪して、江戸の大商人や地方の豪族をスポンサーに句会を開いて貰い、僅かな謝礼と一宿一飯の恩義を得て暮らしていたのがよく分かる。有名な「奥の細道」は、芭蕉の地方巡業の記録を句集にまとめたものであるし、辞世の句「旅に病んで夢は枯れ野を駆け巡る」も、旅の途中で客死した芭蕉の境涯をよく表している。関西系の井原西鶴の場合は俳句の他に読み物作家、与謝蕪村の場合は画家という生業があったので、なんとか俳諧師を続けることが出来たと言える。
俳句は、もともと連歌の発句から発達したもので、連歌師というものは戦国期、各地の大名を訪問しては連歌の会を開いて貰い、一宿一飯の振る舞いにあずかり、謝礼を得て逗留し、各地の噂話や情報を提供するのが職業であった。だから、連歌師はスパイの一種として考えられる場合も多く、それが後の芭蕉忍者説の根拠にもなっている。さて、近世末期俳句はやや衰退の傾向にあったが、明治に入って正岡子規が出るに及んで、近代芸術として蘇生した。子規は新聞記者であったが、早くに結核の病に倒れ、闘病しながら俳句の業を成したので、終生俳句を職業とすることはなかった。近代俳句を職業として完成させたのは、子規の弟子であった高浜虚子である。虚子の方法論はきわめて明快で、俳句にお茶、お花、踊りと同じ家元制度を導入しようとするものであった。俳句雑誌の同人を組織することによって、主宰という名の指導者の下に階級を設け、各地の句会を同人に主催させ、上納金によって主宰が飯を食う道を得るという、いわばヤクザと同じ組織論をもって虚子は周到に子規から受け継いだ「ホトトギス」を運用し、俳句独特の家元制度である「俳壇」を確立した。だが「俳壇」は、第二次世界大戦中には新興俳句弾圧事件を引き起こす。それは要約すれば家元制度、上納金制度による俳句の職業化が、子規の創始した近代芸術としての俳句に馴染まなかった故に引き起こされた悲劇といえる。
「俳壇」は今日もなお衰えてはいない。が、自由な表現としての俳句を職業としても成り立たせる試みとして、現在、同人誌ではなくインターネットの利用が始まっている。この稿の筆者としては、その動きに強く期待している。
2017年11月1日
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洋館散歩
たとえば貴方が、自営業を子供に譲った、会社を定年で退職した、子供が就職して地方に赴任した等々の理由で、いくらか暇になったとする。
もちろん、第二、第三の人生を求めて、儲からなくてもよいからなにかのお仕事に就く、と言うのもひとつの考え方だろう。が、もう一方で悠々自適、これまでの人生で忙しくて出来なかったことを、身体が元気な内にしてみる、という考え方もあってもよい。
しかし、悠々自適も初めのうちは良いが、読書にしても映画や芝居を見るにしても、グルメツアーにしても、そうそうひとつのことは続かない。これまでの人生が忙しい人ほど、やりたかったこと、できなかったことが意外にも少ないことに気づくはずだ。
そんな時は、他人様のお勧めに素直に耳を傾け、これまで思ってもいなかったことをしてみる機会を探して、気持を若く、挑戦してみることをお勧めしたい。
と、言うわけで、今月のお勧めは、洋館散歩。東京都内にある明治、大正、昭和の歴史的建造物を見物する散歩である。
まずは、東京駅。(辰野金吾設計、1914年12月竣工)丸の内の駅舎そのものが2012年10月に建築時の姿に復元されて、公開された。とくに正面から見た南北のドームは、東京大空襲で焼け落ちて以来、仮屋根がかかっていたのが、元の姿に戻った。この稿の筆者などは終戦後の生まれなので、元の姿を写真でしか知らなかったが、なるほどドームを復元してみれば、仮屋根よりはよほど駅舎のたたずまいにあっているように思える。駅舎はもちろん電車の乗り降りに使われているが、ほかに駅舎内の東京ステーションホテルでお茶を飲み(ほんとうは、夜にバーでカクテルを飲むのがお勧め)東京ステーションホテルギャラリーを見てから帰るのもよい。
東京駅を丸の内の方角に出ると、三菱一号館の赤煉瓦建築(ジョサイア・コンドル設計1894年竣工)が、近代的なビルに張り付いている。これは2010年にレプリカとして復元されたものだが、かなり精緻に昔のたたずまいを残し、内部は美術館として運営されている。その昔丸の内一帯は、三菱の赤煉瓦街として有名であった。そのよすがを偲ぶ建物は、このレプリカ一棟になってしまっている。東京駅を八重洲側にくぐり抜け、少し歩くと、丸の内駅舎と同じ辰野金吾設計の日本銀行本館の旧館(1896年竣工)がある。内部は残念ながら日本銀行の業務に使われていて一般人は入れないが、外から見ても堂々たる洋館だし、少し上から見ると建物が円の形をしているという説もある。向かいには貨幣博物館があって、古今東西の貨幣や紙幣を見ることが出来る。
以上の洋館は、いわば業務用のビルディングであるが、やや小規模な邸宅風の洋館三箇所を紹介しておく。いずれもお金を払うか客になれば入ることが出来る。JR駒込駅より旧古河邸庭園内の大谷美術館
(ジョサイア・コンドル設計1917年竣工)。大江戸線赤羽橋駅より綱島三井倶楽部
(ジョサイア・コンドル設計1913年竣工)。JR目黒駅より東京都庭園美術館本館
(アンリ・ラパン内装設計1933年竣工)。2017年10月1日
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リットン報告書
今から86年前の9月18日、当時の満州(現在の中国東北地方)奉天(現在の瀋陽市)城外の柳条湖という所で、日本の管理下にある南満州鉄道の路線が爆破された。後に判明することだが、この爆破事件は、当時の日本陸軍の関東軍が仕組んだ謀略であった。爆破事件を、満州を支配していた張学良政権(当時中華民国国民政府に帰属していた)の仕業と断定した関東軍は、張学良軍を攻撃、瞬くうちに奉天以下の満州主要部を占領、張学良軍を満州から駆逐して、翌年3月1日には満州建国を宣言、中華民国から同地を分離独立させ、旧清朝の最後の皇帝であった溥儀を執政(後に皇帝)に擁立して、事実上日本の傀儡政権とした。
これは、外見的に見ても明白な日本の侵略行為であり、当時の国際連盟を主軸とする第一次世界大戦後の平和秩序に反する行為であった。満州を奪われた中華民国は当然国際連盟に、日本の不法を提訴し、ここに国際連盟の調査委員会が、英、米、仏、伊、独などによって構成される調査団(団長の英国人リットン伯爵の名を冠して「リットン調査団」と呼ばれている)を現地に派遣した。
リットン報告書は、この調査団が1932年10月2日に公表した、調査報告書である。その内容は、現代の視点から見ればかなりの程度に日本側に同情的なものであり、結論も、要約して言えば、「満州における中国の主権は認めるが、日本の特殊権益も認める」という、日本にとっては「名を捨てて実をとる」ことを要求するものであった。しかし、満州を占領してその地に居座り、すでに名目上とはいえ独立国家建設を始めていた日本の軍部は、この報告の内容を峻拒し、結局日本はリットン報告書の内容に基づいて中国の満州統治権を承認した国際連盟総会決議を拒否する形で、同年3月27日国際連盟を脱退した。
その後日本が国際社会で孤立を深め、敗戦への道をたどっていったことは周知のとおりである。
さて、話は変わるが、南シナ海における群礁に人工島を建設している中華人民共和国に対してフィリッピンが提訴した件について、2016年(去年)7月12日(国際)常設仲裁裁判所が下した判決と、その後の中国の対応を見て、筆者が思い出したのは、上記のリットン報告書である。
中国は、1899年の国際法に関するハーグ平和会議で設立された、権威ある国際仲裁機関の判決を頭から無視し、国際法秩序とは別の論理を立てて、南シナ海における中国の主権を主張している。中国国内で軍部と人民がこぞって国際法秩序に背を向ける自国の政策を支持し、政府の尻をたたいている構図も、満州事変当時の日本国内の世相とよく似ている。
戦争前の日本、現在の中国に共通しているのは、米欧など近代国民国家の先進諸国が主導する国際的な法秩序を無視している点にある。なぜならば、これら先進諸国は、近代の前半(19世紀末頃まで)において、みんな帝国主義的な侵略国であり、東アジアの後進諸国の主権を脅かしてきた存在だからである。彼らの過去を既成事実として認め、後進諸国がかつての先進諸国と同じことをしようとすれば国際平和の名の下に規制しようとする。それはフェアではないという思いがあるのだろう。だが、残念ながら、百年前、二百年前に許された行為は、今日の正義ではない。今日の国際平和のための法秩序は、二十世紀の戦争で流された無数の人々の血の上に成り立っているのである。フェアではなくても、従うしかないのではないか。
2017年9月1日
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ヤスクニ
八月なので、靖国神社の話である。だが、予め申し上げておくと、戦犯合祀だとか、公式参拝だとか、神道は宗教かといった、政治的な争いのある生々しい話題ではない。
靖国神社の起源は、文久二年十二月津和野藩士福羽美静らが、京都東山の霊山(りょうぜん)にまつり、翌年八坂神社境内に、ペリー来航以来の尊皇攘夷活動に倒れた志士たちを祀る祠を建てたことによる。
福羽美静という人は、津和野藩の下級藩士で国学を学び、京に上って「国事に奔走した」人のようである。祠の建立は、安政の大獄、桜田門外の変の僅か二、三年後。この人の志士歴のむしろ始まりの時期にあたる。この時期、幕府はまだ健在で、桜田門外の変後情勢はやや勤王方優勢に変化してはいたものの、志士殉難者の祠を建立することは、かなり周囲をはばかるようなことであったに違いない。
福羽の試みは、「招魂」という新しい概念を神道に導入する端緒ともなった。「天皇への武士的忠誠」を貫いて犠牲となったものへの慰霊と鎮魂こそが、「招魂」の本質である。さらに言えば、死者を神として祀ることを通じて、死者の霊力によって現在進んでいる反幕運動が有利に運ぶように祈る気持ちもあったのではないか。
福羽らの試みを契機として、明治維新直後早くも新政府は、ペリー来航(一八五三年)以来の国事で殉難した者の霊を京都東山にまつり、その後江戸城内において戊辰戦争で戦死した官軍将兵を慰霊する祭りを行った。そして明治二年函館戦役が終わるとすぐに、東京九段の地に「東京招魂社」(後の靖国神社)が建立され、第一回合祀祭が執り行なわれた。
以上のように、客観的に見れば、この頃まで靖国神社は、明治維新の一方の側の死者を祀る施設であった。その一方の側が勝利し、近代国民国家を建設する担い手となったために、その後、徴兵制を敷いた大日本帝国が行った戦争の(自国側の)死者を慰霊する機能を持つようになったのである。おそらく、靖国神社側の言い分としては、明治維新と明治維新後の戦争は一連なりの事象であり、祀られている「神」はいずれも「国家のために命を捧げた者」であるということなのだろう。
戦後の日本国が、戦前の大日本帝国との間に一定程度の「国家としての継続性」があることは、今日左右の勢力ともあまり異議はないはずである。現憲法は(原案をアメリカが作ったにせよ)帝国憲法を改正して成立しているのであるし、国家として継続していればこそ「前の戦争の責任」の在処が問われたりもするのであろう。
だが、今の日本が、はたして明治維新の一方のイデオロギーを継承しているのか、と言えば、それはかなり違和感がある。端的に言えば、尊皇攘夷が正しくて、佐幕開国が間違っているという価値観が現代に通用するかと言えば、もうそれははるか歴史の彼方の話なのではないか。ちなみに、この稿の筆者は旧幕臣の子孫である。筆者の思いとすれば、靖国神社は自分の属さない「もう一方の側」に偏した施設に見えてしまう。百五十年余の昔、血を流し合った双方ともが、近代国家の礎であったと考えたいのだが。
2017年8月1日
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飴の切り口
平成27年7月の歌舞伎座公演は、松竹創業120周年と銘打って興行されていた。その演目を少し覗いてみよう。
昼の部は、南総里見八犬伝で始まる。八犬伝は、滝沢馬琴作の長い、長~いお話であるが、歌舞伎座ではその内、「芳流園屋上の場」と「円塚山の場」の二幕だけをやる。昼の部二番目は、「死んだはずだよお富さん」で有名な(と、いってもこの歌が流行したのを知っておられる方はもう80歳に近いが)「与話情浮名横櫛」(「よわなさけうきなのよこぐし」と読む)。これも、「見初め」「源氏店」の二幕だけピックアップしての公演である。三番目は、蜘蛛絲梓弦(「くものいとあずさのゆみはり」)という狂言だが、これには「市川猿之助六変化相勤候」という付記があって、まあ狂言の筋よりは猿之助の六変化を楽しむレビュー的な要素が強いことがわかる。一方夜の部では、みなさんよくご存知の三遊亭円朝原作「怪談牡丹燈籠」を坂東玉三郎の演出で掛けるのだが、これにはわざわざ「通し狂言」という言葉が付記されている。つまり、歌舞伎の演目というのは、「通し狂言」で台本どおりやるのではなく、長いお芝居の中の、一幕、二幕をピックアップして公演するのが普通だということなのである。だから、わざわざ、「牡丹燈籠」では、「全部やります」という意味の「通し狂言」という断り書きが付いているのだ。
さて、今月は、なぜ歌舞伎の通し狂言が廃れて、一幕、二幕のピックアップ公演になっていったか、ということを考えてみたい。仮説は二つある。
第一の仮説は、もともと歌舞伎は出雲の阿国に始まったころから、役者の踊りや所作を見せるレビュー的な要素がつよく、芝居の筋に対するこだわりが少なかったから、というものだ。つまり、戯作者は、役者が一番映える「名場面」を創り出すのが商売で、「名場面」のために適当な筋をつければよく、そのためにずいぶん無理な筋(よくあるのは歴史上の有名人物が、なにかの庶民に身をやつし「庶民誰それ、実は誰某」という設定)をでっちあげても、お客に「名場面」さえ見せれば許された、ということなのではないか。そうすると冗長な無理筋を全部公演するのではなく、その「名場面」さえ演ずればお客は喜ぶのだから、ピックアップ公演でよいということになる。第二仮説は、この稿の筆者が「飴の切り口」説と呼ぶものである。まず、例を「助六由縁江戸桜」にとると、この話は遊郭の客助六、実は曽我の五郎(鎌倉時代の歴史上の人物)が吉原とおぼしき遊郭で暴れる話である。お客が見たいのは、吉原の風俗であり、その中での役者某の活躍である。が、江戸幕府は、その当時の吉原をそのまま描くようなナマで遊惰な芝居など許すはずはなかった。そこで戯作者が工夫をして、曽我兄弟の仇討ちという鎌倉時代の勧善懲悪話のなかに上手に吉原の場面を織り込んだということなのではないか。いわば、金太郎飴を外から見ると「鎌倉時代の勧善懲悪話」、ある部分だけを切り取るとその断面に「吉原遊郭風俗」が顕れるように、もともと創ってあるのが歌舞伎芝居なのではないだろうか。
2017年7月1日