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COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
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同一労働 同一賃金
前号では、最近非正規雇用の労働者が、社会の中で無視できない割合を占めてきて、その人たちがきわめて低い給与に甘んじていること、一方で、年功序列賃金、終身雇用制に守られた正社員もまだかなりの割合いて、不景気とは言ってもそれなりに安定した給与を得ていること。同じ職場の中で、同じ仕事をしているのに正規と非正規では、待遇に著しい差があり、そのことの矛盾が社会に大きな葛藤を生んでいることなどを述べた。
そこで、政府は唐突に「同一労働、同一賃金」制度を導入しようと言い出した。同じ職場で同じ仕事をしていれば、正規雇用か非正規雇用か、勤続年数が何年かを問わず、賃金を同じにしようという考えである。たしかに、世界を見渡せば、年功序列、勤続年数に応じて昇給していくような制度の国はあまりない。だいたいが、日本よりも非正規雇用の割合が高く、正社員であっても、何時解雇されるかわからないような国の方が多い。
しかし、ちょっと想像してみると、工業、とりわけ工場があるような業種では、まあ入社してからかなりの高齢になっていわゆる職長とか言うものにならない限り、職場の仕事はずっと同じ様なものである。新入社員の初任給は、少し上がるのかもしれないが、入社してから、自分の子供が社会人になるような年齢まで、ずっと同じ賃金というのは、理屈では正しいかもしれないが日本人の感情がついていかないのではないか。Xという職場が会社の都合で閉鎖されてYという職場に移ったら、給与が変わると言うのも、しっくりこない。さらに言えば、これからの日本は少子高齢化社会を迎えるわけだから、今、とってつけたように「同一労働、同一賃金」を導入しようというのは、高齢の正社員の昇給を抑えようとする陰謀なのではないかとすら思えてくる。
この稿の筆者の考えは、給与というものは職務給(今何の職務を担当しているか)、職能給(どのくらいの潜在的なスキルがあるか)、年齢給(勤続年数に依らず、家庭の事情にも依らず、ただ何歳か)の三本立てで、しかも原資は三等分するくらいがちょうど良いのではないかと思う。だが問題は、人件費をどのように配分したら良いかという賃金体系の話だけにはとどまらない。今の日本では、雇用と賃金を組み合わせた労働環境で見ると、ローリスク・ハイリターン、あるいはハイリスク・ローリターンが平然とまかり通っている。
正社員は高給を取るだけではなく将来の雇用保証がある。非正規労働者は、賃金が安いだけではなく、いつクビになるかわからない不安定な暮らしを続けなければならない。これでは社会正義の観点からみて、明かに不公正な身分格差と言わなければならない。
筆者は、大まかに年収4百万円未満の労働者は、終身雇用も住居の移動を伴う転勤を拒む自由も保障すべきだと思う。4百万円から8百万円くらいまでは一定の雇用の保証はあるが、出向転属等は拒めない。そして8百万円を超える者は全員、800万円超は4年、1000万円超は3年、1200万円超は2年くらいの契約社員にしてしまうのはどうだろうか。高給を食む者は、次の契約がもらえないかもしれないリスクに甘んじるべきなのではないか。
ハイリスク・ハイリターンの社会こそ「公正・公平」で自由な社会だと思うのである。
2017年6月1日
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終身雇用 年功序列
第二次世界大戦が始まる1940年頃、日本経済は従来の自由な資本主義経済から、当時の言葉で言う「統制経済」にシフトした。いわゆる「1940年体制」の始まりである。この経済体制は、資本主義の基盤を維持しながらも、その構造の上に計画経済、資本と経営の分離、社会福祉、貯蓄の奨励と資金の重要産業への傾斜配分といった社会主義的な要素を導入し、「国家総力戦」「総動員体制」を構築し、世界大戦への参加を準備しようとするものであった。だが、この統制経済体制は敗戦後も維持され、日本の戦後復興は、この資本主義と社会主義の混合経済によってなされた。
さて、戦後も続いた「1940年体制」の一つの大きな特徴が、終身雇用と年功序列である。 終身雇用制度とは、社会の大多数の労働力が、正社員としてどこかの企業に所属し、しかも定年までほぼ転職しないという制度である。この制度は、多くの労働者にとって生活安定と労働意欲喚起に役立ったが、一方でこのことが可能であったのは、国全体が高度経済成長を謳歌し、あらゆる企業が一定の成長を約束されていた故であって、1990年代バブル経済の崩壊を契機に、企業そのものが倒産や再編、あるいはそれほどではないにしてもリストラクチュア(「構造の再編」という意味だが実態は減員、首切りのこと)に直面すると、殆どの労働者が定年まで一つの企業に勤務するなどということは不可能となり、労働市場は悪い意味で流動化、自由化した。簡単に言えば、社会のかなりの割合の労働者が、非正規雇用、つまり「終身雇用の正社員」ではなくなったのである。
一方で、終身雇用制度と対になった日本特有の賃金制度が、年功序列型賃金である。この賃金制度は、概ね勤続年数に並行して賃金が等差級数的に増加していくというもので、職務給(役職手当)や職能給(上司による能力評価部分)はごく僅少、補助的な割合を占めるに過ぎなかった。労働者は入社すると、終身雇用制度の下で、能力の有無を問わず、毎年少しずつ昇級し、数年以内の差で管理職となり、子供が生まれて学校に行き家庭でお金がかかるのにほぼ並行して消費需要を満たす賃金を得られる仕組みとなっていた。この制度の末期には、役職定年と言って、定年前に数年ヒラに戻って賃金が少しだけ下がる制度に修正されたが、これとて親がその年齢になる頃には子供が独立しているだろうと考えれば、労働者にとってそれほど困る話ではない。
ところが昨今、社会で無視できない割合の労働者が非正規雇用となり、この人々の賃金が正社員に比較して著しく低く、昇給もしていかないという現象が起きてきた。このままでは、正規雇用と非正規雇用で、一種の階級差が生じ、国内に大きな葛藤が起きるのは必然である。しかも、実際には有能な非正規労働者が、低い賃金で、高給の正社員より優れた仕事をする例が多く見られる。そこで、世界の標準である「同一労働、同一賃金」制度を導入しようと政府が言い出した。しかし、約70年の間慣れ親しんできた「終身雇用、年功序列賃金」の常識から、企業も労働者も脱却するのは簡単なことではない。そこで、来月は、これからの時代の日本に相応しい、雇用・賃金制度について考えてみようと思う。
2017年5月1日
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Win Win
今年は、昨年の混乱に懲りて、就職活動の時期が少し早くなったらしい
本稿が世に出る頃には、リクルートスーツの若者たちも、内定、内々定に一喜一憂していることであろう。さて、就職面接に臨むときの求職者側の基本姿勢に関するお話しである。
この稿を書いている現在、筆者はひとりの中途入社希望者(青年だが妻子も既にある立派な大人である)を採用するかどうか、というプロセスにある。その人は、けっこう高学歴だったのだが、新卒の時にいわゆる大会社をしくじって、行き場がないというので、ある方に頼まれ、私が地方の有望なベンチャー企業に紹介した。数年その会社で働いて、けっこう優遇されもしたようだが、妻子を持ってしばらくして「その会社の経営方針があまりにもリスキーなので転職したい」と言って親族の関係するやはり地方のソフト会社に転職した。その際私に挨拶があったのは、辞表を出した後の話。今回は、「田舎のソフト会社では自分の将来が見えない」ので筆者の本業に就職したいという。以前と同じ依頼者を介しての話で、本人が応募書類に押印して持ってきたという訳ではない。完全な縁故採用のケースである。面接をしてみると、まあまあ仕事の方には適性がありそうなのだが、当方がカチンと来たのは、お礼のメールに「この度は、大変興味深いお誘いをいただき、ありがとうございました」と書いてあったこと。これでは、まるでこちらが有望な社員を採用するために、この青年をスカウトに行ったかのような文面ではないか。本人に悪気はないのかもしれないが、挨拶やお礼は、したから良いというものではない。挨拶の仕方や、お礼の言い方は、一つ間違えると、かえって事態をこじらせることになる。
この青年が、数年前、高学歴なのに大企業の面接に次々と落ちてしまったのは、どこかで自分の立場と相手の立場の関係をはき違えるところがあって、そのポイントを企業の人事担当者に鋭敏にかぎ分けられてしまったからではないだろうか。
上記は個別の事例だが、このことは就職面接時の求職者の姿勢に一般化できる。
志望理由を尋ねられて、「御社は○○の業績を上げられており、その前途は洋々たるものです」なんて答える者がいるが、このくらい相手を馬鹿にした話はない。御社の前途が洋々だから、私もそのおこぼれに与りたいと言うのだろうか。
志望理由の言い方はすべからく「御社は○○の業績を上げられており、私は××の力があるので○○のこの部分に貢献できると思います」であるべきだし、そんな力がないのなら、「私は○○に強い興味があるので、ぜひ○○のこの部分に貢献したいと思います」と言うべきだ。要するところ、この就職が実現することによって、企業もハッピー、私もハッピーというWin Winの関係がどうして成立するのかを論証する場が、就職面接なのだ。
初めの話に戻って、お礼メールの文面はどういう表現が適切だろうか。模範答案は「この度は私のわがままな就職志望にもかかわらず、面接をいただきありがとうございました。お話しいただきました仕事の内容には強く惹かれました。理由は・・」と、いうところか。
さて、筆者はこの青年を採用したものだろうか。
2017年4月1日
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軍艦の名前
大日本帝国海軍の軍艦名の話である。
この稿の筆者は、第二次世界大戦が終わってから七年ほどして生まれた。小学生の頃は、近所の男の子は、誰でも文房具屋や玩具屋でプラモデルを買ってきて作ったものだ。
筆者が初めて作ったのは戦艦「霧島」、その後が航空戦艦「日向」であったか。戦艦のプラモデルは、ゼロ戦や隼など飛行機に比べると値段が高かった。一ヶ月分のお小遣いより高かったのではないか。当時は、まだ巷間には白い衣服の傷痍軍人が溢れ、戦犯にならなかった提督や将軍たちも、町内のオジイサンという感じで身近に生き残っていた。要約して言えば、我々の世代は、大日本帝国海軍も陸軍も、現代のオタクな少年たちより遙かに身近に感じることが出来た世代なのだ。
その時代、筆者は第二次世界大戦期の連合艦隊の軍艦名を、殆ど全て暗記していた。(今でも、戦艦、重巡洋艦くらいは、ソラで言える)そして思ったことは、陸軍が何かと命名に「勇ましい」文字を付けたがるのに対して、海軍の軍艦名は、とても優しく美しいということであった。英語でも、船を指すときには、she、その船のという所有格にはherという文字を用いる。船は女性であり、船乗りの男たちが身を託す存在と言うことなのだろう。
さて、以上で結論を書いてしまったので、興味のない方は、この先はお読みいただかなくてかまわないのだが・・まず帝国海軍の軍艦名は「大日本帝國海軍艦艇の命名基準」(明治38年8月1日制定)~日露戦争の直後~以降体系的なルールに則っている。だから「三笠」だとか「朝日」だとかいう日本海海戦に登場する戦艦たちはこの基準に則っていない。
【戦艦】国の名前 大和、武蔵、長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向(他に巡洋戦艦と言って、巡洋艦から改装後格上げになったのが、金剛、榛名、比叡、霧島) 【重巡洋艦】山の名前 青葉、古鷹、加古、衣笠、妙高、足柄、羽黒、那智、鳥海、高雄、愛宕、摩耶(軽巡洋艦から備砲の規格変更で格上げになったのが、最上、三隈、鈴谷、熊野、利根、筑摩) 【軽巡洋艦】川の名前 球磨、多摩、北上、大井、木曾、長良、五十鈴、阿武隈、名取、由良、鬼怒、川内、神通、那珂、夕張、阿賀野、能代、矢作、酒匂、大淀 秀逸なのが【一等駆逐艦】天文事象(たくさんあるので代表的なところだけ) 吹雪、白雪、初雪、深雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、夕霧、天霧、狭霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、浜風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲、夕雲、巻雲、風雲、長波、巻波、高波、大波、清波、玉波、涼波、藤波、早波、浜波、沖波、岸波、朝霜、早霜、秋霜、清霜 【二等駆逐艦】木草 樅、榧、楡、栗、梨、竹、柿、栂、菊、葵、萩、薄、藤、蔦、葦、菱、蓮、菫、蓬、蕨、蓼 ~駆逐艦名を見ていると何だか俳句の歳時記を読むような思いがする。
空母、潜水母艦、海防艦なども佳名がたくさんあるが、紙数が尽きるので省略する。
最近、自衛隊の護衛艦(いずも、かが、いせ、ひゅうが、みょうこう、こんごう、はるな、きりしま等)の名前が旧海軍を踏襲していることに、近隣の国々から抗議の声が上がっていると聞く。が、上記の艦名の由来を見れば、命名の企図が平和なものであることは理解いただけるはずだ。
2017年3月1日
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クラクション
車のクラクションを、法律用語では、警音機と言うのだそうだ。まあ、平たく言えば「警笛」と和訳するのが妥当なところかもしれない。
クラクションは、自動車が自分に気づいてくれない他者(他の車でも、人間でも、動物でも)に自己の存在を気づかせるために音を発する道具である。相手が自分の存在に気づいてくれない場合に、危険が発生する時に鳴らすというのが、クラクションの正しい使い方である。
但し、見通しの悪いところで「警笛鳴らせ」の標識が設けられている箇所では必ずクラクションを鳴らさなければいけない。上記の通り、クラクション発声の本質は、「私に気づいて!」というアピールであるが、世の中には、危険発生の可能性以外にも「私に気づいて!」とアピールしたい者がいて、本来の目的を超えてクラクションを鳴らす場合がある。
一昔前の暴走族が、馬の嘶きのようなけたたましい音を鳴らして、街頭を行進したのは、まさに「私に気づいて!」の典型である。重量級のトラックが制限速度を超えて彼方から疾走してきて、こちらを見つけるなり「ブァー」とクラクションを鳴らすのは「どけ、どけ。俺様が通るぞ。」という意志の表明である。狭い路地の両方向から大きい車がやってきてすれ違えない場合、片方の車がクラクションを鳴らすのは「おまえが後ろに下がれ」という要求の意味である。上記三例は、いずれも威嚇の目的でクラクションを鳴らすのであって、自然界における野獣の咆哮に近い。北海道の山奥などでは、鹿や牛の群れが延々道路を渡る間、自動車は赤信号だと思って待つのがマナーであるが、時々事情を知らない都会者が、相手を動物だと侮って「早く渡れ」という意味の威嚇のクラクションを鳴らす。これは動物の群れを驚かして、暴れさせたりする大変危険な行為である。
それとは、正反対に、狭い交差点などで相手の車が道を譲ってくれたときに、こちらが警笛を鳴らすのは、威嚇ではなく「ありがとう!」というお礼の意味である。が、狭い交差点に面して建っている家屋の住人にとっては、常時この「ありがとう!」のクラクションに悩まされなければならないので、ほんとうは、「ありがとう!」のクラクションも礼譲に反する行いである。また最近、あるタレントが、クラクションを鳴らすと「あ、○○だ。○○が威張っている」とファンに思われるので、なるべくクラクションを使わないようにしている、とラジオで言っていた。これは「存在に気づかれたくないので、使わない」という意味で、サングラスをかけて町中を歩くような行為に似ている。いずれも危険な行為である。サングラスをかけて町を歩けば、物体は見えにくくなるし、日常クラクションを使わないように心がけていると、危険に遭遇しても咄嗟にクラクションに手が伸びない。
凡そ、日本の運転者には二種類の者が存在する。一方は、車に乗ると急に人格が変わり、威嚇のクラクションを鳴らし、(車の中だけだが)周囲の車を口汚く罵りながら運転する。
他方は、クラクションが必要な場合にも鳴らさず、できるだけ車の流れの中に埋没して、自分に気づかれたくないタイプである。だが、「相手に存在を気づかせる」「相手の存在に気づく」行為が威嚇や怯えにつながるような社会はどこかが間違っているのではないか。
2017年2月1日
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タンゴ その2
前回は、日本におけるタンゴの風俗史のようなことを漫然と書いたので、今月は、タンゴの音楽史を要約して書くことにする。
タンゴは、1870年頃アルゼンチンは、ブエノスアイレスの港町、「ラ・ボッカ」で生まれた。
タンゴは、(日本の演歌が西洋音楽と民謡との混交であるように)ヨーロッパのクラシック音楽と南米の民族音楽などの混交である。タンゴの父が西洋音楽とすれば、母はミロンガという、ラテンアメリカの田舎のカウボーイ(ガウチョという)の民謡である。延々とした語り、節回しなど、ミロンガは日本の民謡とも共通するところがある。(民謡の歌詞は、恋愛や故郷への慕情などだが、本質に於いては、牧畜、農作業、漁労などの間に歌われる労働歌である)
さらに言えば、ミロンガ自体が、白人とインディオの音楽の混交である。田舎者の民謡ミロンガが、都会ブエノスアイレスのイタリア系船員の街「ラ・ボッカ」で、西洋生まれの楽器や旋律と出会い、船員や沖仲仕の集まる酒場の舞踊の曲として生まれたのがタンゴである。タンゴという言葉は、1880年出版された「バルトール」という曲の楽譜表紙で初めて公に使われたとされている。(この時代音楽配信やCDという便利なものはなかったので、音楽の普及は専ら楽譜の出版によった)
それから、僅か16年後、タンゴは海を渡った。アルゼンチン海軍の練習艦サルミエントが欧州を訪問。艦上の軍楽隊がタンゴ「ラ・モローチャ」を演奏し、欧州人に楽譜を配った。この時代の少し前、日本なども万国博覧会に芸者衆を出演させて日本文化を訴求したりしているが、当時西洋文明の片田舎アルゼンチンとしては、タンゴを自らの文化の象徴として訴求したかったのだろう。ともあれ、この海軍の試みが奏功して、港町の演歌タンゴは、近代世界に知られるようになった。
1911 年 ヴィセンテ・グレコ楽団がオルケスタ・ティピカと称する。この頃、ドイツ生まれの楽器バンドネオンが、オルケスタの主役として定着する。
第一次世界大戦を経て、大戦後のヨーロッパには、アルゼンチンからカルロス・ガルデル(1923年渡欧)、フランシスコ・カナロ(1925年渡欧)などの楽団がやってきて、ポピュラーミュージックとしてのタンゴの一大ブームを巻き起こした。この時代、本場アルゼンチンの上流階級は、下層階級の演歌タンゴを白眼視していたのだが、囚われのない若者達によってタンゴは世界に普及し、それを見た故国の上流階級がやっとタンゴを認めるようになったというのも、日本でもありそうな話しである。
本場の泥臭いアルゼンチン・タンゴから、欧州社交界向けの洗練された、甘い旋律のコンチネンタル・タンゴが生まれた。一方で、タンゴの名曲として今日なお一日24時間世界のどこかで必ず演奏されているという「ラ・クンパルシータ」が歌詞付きで流行するようになったのもこの頃のことである。
紙数が、尽きそうなので、最後にアストル・ピアソラという人についてふれる。ピアソラは、1941年にデビューしたバンドネオン奏者、作曲家である。第一次世界大戦後の、ガルデルやカナロ達がタンゴをポピュラーミュージックとして世界の舞台に上げたとすれば、ピアソラの功績は、第二次世界大戦後の新しい世界で、タンゴを基礎としながら、ジャズやクラシックとフュージョンさせ、現代音楽として羽ばたかせたことにあるだろう。守旧派からは、時に「タンゴの破壊者」と譏られたピアソラだが、今日タンゴを知らなくても、ピアソラを知っている音楽ファンは多い。1992年没。
出典:2009 年11月 16日 松井清治「アルゼンチン・タンゴ歴史年表」他より
http://www009.upp.so-net.ne.jp/fial/activity/data/fial_FTS12_0911b.pdf2017年1月1日
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タンゴ その1
この稿の筆者が、大学時代放送のクラブに属していたことは以前書いた。
そのクラブは、百数十人も部員がいる、いわゆる「文連大手」のクラブで、六大学野球のアナウンスやら、学園祭のPA(バンドなどの音声調整、ミキシング)、卒業レコードの制作などでしっかりビジネスをしていて、世間のちょっとしたプロダクションみたいな感じであった。そのビジネスの一環で、学内のバンドに司会者を派遣するという業務があった。
クラブのアナウンス部門に所属する男女の部員を、軽音楽だとか、ハワイアン、ジャズ、タンゴなどのバンドに「出向」させるのである。それらのバンドの司会者は、代々放送のクラブの部員がつとめることになっていて、出向者は四年生になると、適当な後輩をみつくろって後継者として育てるのである。数あるバンドの中で、筆者が何故タンゴの司会者に選ばれたのかは、よくわからない。まあ、ライトミュージックとかモダンジャズの素養には欠けていたから、バンドの中でも比較的「堅そうな」イメージのあるタンゴが良さそうだと言うことになったのかもしれない。その時筆者は、全くタンゴなんていう音楽は知らなかったのだが、「来週から本番だから」とかいわれ、先輩がつくった手書きの曲名紹介のノートと音楽之友社刊「タンゴ入門」とか言う本を渡されて、慌ててそれから勉強することになった。
タンゴが生まれたのは、概ね明治維新の頃。筆者が学生であった1970年代でも約百年しか過ぎていない。南米のインディオの音楽と西洋音楽がほどよく混交して出来た、まあブエノスアイレスの港の酒場から生まれた演歌のような音楽である。あまり上品な音楽ではない。バンドネオンというアコーディオンの鍵盤がなくて両サイドがボタンになっている楽器が特徴で、バイオリンやピアノが奏でる甘いメロディーに、このバンドネオンがチャッチャという刻みのリズムを入れていくのである。歌の内容は、殆ど、女に振られた男の未練を歌うもので、本場では、これにほとんどセックスを様式化したと言えるような妖艶な踊りがつくことになっている。
筆者が、タンゴバンドに出向して司会者を務め始めた時代は、いわゆるパーティー券を売るダンスパーティーの最後の時代であった。体育会などの学生のクラブが、部費稼ぎに、同じく学生のバンドを雇ってきて、ダンスパーティーを催すのである。食べ物や飲み物は現代の政治家のパーティー並みにプアであったが、音楽だけはすばらしかった。
当時は、合コンというものはまだない(筆者が大学を卒業する頃、いわゆる合コンが始まった)ので、このダンパが男女の出会いの場を提供したのである。はじめはワルツ、そのうちタンゴなど踊るのに難しい曲が流れ、最後に明かりが暗くなってスローなテンポの曲が流れて、一同チークダンスという場面になる。筆者も、名前を知らない女子学生とぴったりくっついて、ダンパのチークタイムを過ごしたことが何度かある。
タンゴバンドはダンスパーティーの花であった。一年に何回もダンパをこなせば、貧乏な学生の遊ぶ金くらいは稼ぐことが出来た。やがて、ゴーゴーそしてディスコティックの時代が来て、この難しい音楽で踊ろうという学生の数は次第に減っていった。
~この項続く~2016年12月1日
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裁判員制度
映画TED2を見てきた。
TEDは、魂の入ったテディベアのお話しである。まず、前作TEDを簡単に紹介する。
ボストン郊外に住む少年ジョンは、1985年のクリスマスプレゼントに貰ったテディベアのぬいぐるみを愛し、魂が宿るようにと祈る。その願いが叶って翌朝くまは友達のように口をきく存在になっていた。TEDは一躍町の人気者になり、テレビなどにも出演するがやがて飽きられ、世間も騒がなくなる。それから27年、2012年のボストン。うだつの上がらない中年男ジョンと、親友のTEDは一緒に暮らしている。休日にはマリファナをふかす不良中年の二人。が、ジョンの恋人ローリーに素行不良をとがめられ、出て行ってほしいと言われたTEDはジョンの部屋を離れて、スーパーマーケットに就職、独身生活を始める。そこにTEDを狙う変質者が現れ・・というようなお話し。他愛がないと言えば言えるが、アメリカの中産階級下層のあまり上品でない暮らしや言葉が実によく描かれていて、「あ、これが民主党のアメリカなんだな」と妙に納得させられる。(それに比べれば、本誌「今月の書棚」がしばらく前に取り上げたジャック・ライアンシリーズなどは、明らかに共和党のアメリカの世界である)
さて、TED2では、スーパーのレジ打ちの女の子と結婚したTEDが、ちょっとした夫婦喧嘩が元で、子供を持ちたいと思うところから始まる。ぬいぐるみTEDに生殖能力はないというのが物語上の設定になっていて、TEDはまず人工授精を考える。親友ジョンとの間のヒーロー、フラッシュ・ゴードン(かつてのB級アメリカ映画のスーパーヒーロー)やアメリカンフットボールの有名選手の精子を取得しようとして失敗したり、ジョンの精子を貰おうとして生殖バンクでドタバタ劇を演じたりという場面があった後、TED夫妻は方針を変えて養子を貰おうと斡旋所に行く。人工授精から養子斡旋へというあたりの扱いが、日本ほど深刻かつWETではなく、きわめて「あたりまえ」のこととして推移するのも、いかにも現代のアメリカを感じさせる。ところが、養子斡旋手続きの過程で、TEDが人格を持ち、結婚していること自体が「行政手続きのミスであった」と州政府が言いだし、TEDは戸籍を失い、クレジットカードも、職場も全てを失ってしまう。そこでTEDは、裁判による人格の回復にチャレンジする。(「そこで訴訟」というのも米国の文化だろう)
親友ジョン、アリゾナ州立大出身の若い駆け出し女性弁護士、TED夫妻の4人ティームと、TEDをモノとして扱い、ぬいぐるみの内部を解析して量産しようとする「共和党系の」金持ち企業家+第一話に登場した変質者のコンビが州政府側に加担しての裁判劇が始まる。
この裁判劇について筆者が特筆したいのは、TEDがモノかヒトかという裁判の主題が、150年昔の米国の奴隷解放裁判にすべてアナロジーされていることと、第一審で負けたTED側に、有名な黒人人権弁護士が「陪審員は、理屈ではなく人間的な感情によって裁く」という助言を与えるシーンである。結末に飛べば、TEDはそのヒトの情に訴えて見事勝訴するのだが、「裁判員裁判は理屈じゃない」という言葉が、妙に印象に残る映画であった。
2016年11月1日
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結界
古代ローマ帝国が存在したのは、だいたいだが紀元前27年(アウグストゥスによる帝制開始)から、紀元476年(西ローマ帝国滅亡)まで。約500年間、そのうち栄えたのは最初の200年くらい。世界史上、そのくらいの長さの国は他にも例がないわけではないが、なんと言ってもローマ帝国が圧倒的な存在感を示すのは、今も帝国の領域各地に、存在を証明する遺跡の数々が残されているからだろう。(その点、モンゴル帝国などは、見事なほどに証跡を残すということに無頓着である)
帝国領各地に残るローマ遺跡は、劇場、浴場、神殿、橋、水道、城壁と多彩だが、みんな石で出来ていることに特徴がある。
天高く石を積み上げ造形を為す技術、土木と建築の業こそが、ローマ人が他民族にぬきんでたものであり、支配力の源泉であったのだと思う。
今日でも、たとえば、南フランスを旅していると突然視界にポン・デュ・ガールの巨大な水道橋が目に飛び込んでくる。日本がまだ国の様態を為していなかった時代に、この巨大な土木工事を成し遂げたことには驚かされるし、現地のガリアの民びとも、これを見たとたんに「ローマには敵わない」と素直に思ったことだろう。同様の水道橋の遺構は、スペインのセゴビアにも、トルコのイスタンブールにも遺っていて、共通の技術がローマから各地に伝搬したことを示している。
さて、ローマ人は優れた土木建築の技術を持っていたから、空間構成を人工的に行うことに秀でていた。ローマ帝国領内に遺る広場を見ると、壁か建築か、とにかく石で出来た背の高い何かに、広場は囲まれている。ローマ風の広場は立方体、乃至直方体の空間なのであって、天井の部分だけが、空に抜けていると考えれば良い。広場の正面には、神殿、教会、市庁舎など人々が出入りする公共建築が配されており、広場自体も正面の建物を中心とする一種の劇場空間であるように構築されている。広場は日常市場として機能する一方で、権力者と人民は身分の差があっても、一つの劇場空間を祝祭によって共有するように設計が為されている。すなわち「パンとサーカス」は、当初円形劇場から始まったのだが、やがて方形の広場がこれに代わるようになったのだと思う。
一方、我が日本では、そのような土木建築の技術を持たなかった。それ故に、幸いと言うべきか、縄一本、盛り塩少々で結界を張るというユニークな文化が発達した。すなわち、空間の境界、あるいは、極端に言えば空間を構成する点に象徴的な何かを配置するだけで、目に見えない結界が張られ、時に祝祭の空間ともなり、時に商業空間ともなったのである。
この稿の筆者は、我が国に、四日市、八日市、十日市など臨時の市場が生まれたにもかかわらず、それらが恒常性を発揮しなかった理由の一つは、市場の縄張りが、恒常的な建築ではなく、注連縄一本の臨時のものであったためではないかと思う。
我が国の人々が結界を張るとき、そこにはハレの空間が出現した。そして、注連縄がほどかれ、あるいは盛り塩が消された瞬間にその場はケの空間に戻ったのではないだろうか。
2016年10月1日
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広報
この稿の筆者が、あるビール会社の広告宣伝の担当者であったことは、本欄でも折に触れて書いている。時期によって、所属した部門の名前は広報部であったり、マーケティング部であったり、宣伝部であったりしたのだが、とにかく広報部門というものが、宣伝部門の隣にあった時期が長く、隣の部門の仕事を兼務したり、手伝っていたこともある。
宣伝と広報で、仕事の内容はどう違うか。会社経営に詳しくない方のために少し説明する。宣伝と言うのは、スポンサーとしてお金を払い、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、交通広告、屋外看板などの媒体のスペースを買って、これに自社の商品などの広告原稿やコマーシャルをのせる仕事である。広告原稿やテレビ、ラジオのコマーシャルは広告代理店や制作プロダクションに頼んでつくることもあるが、基本的には自社の言いたいことを消費者の皆様に伝えるのが使命である。一方、広報というものは、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどのニュース欄に、自社の情報を載せていただくのが仕事である。新聞記者や放送番組の制作者は、スポンサーのお金の力では自由にならないので、広報部門の担当者は日頃から記者や制作者と仲良くして、自社の事業内容、商品情報をよく理解してもらい、少しでも自社に好意的な記事やニュースを発信していただくのが使命であった。筆者の隣の席の広報課長は、よく「マスコミに接待されるのが宣伝部門、マスコミを接待するのが広報部門なのさ」とか、軽口を叩いていたものだ。
さて、今月はその広報部門(英語では宣伝=advertisingに対して、広報はpublicityという)の話を書く。企業広報の仕事(学校や役所にも共通する)を詳しく分析すると「火消しの広報」、「ばらまき広報」、「仕掛けの広報」の三つの段階がある。
「火消しの広報」とは、当該企業の不祥事(たとえば経営者の背任や脱税、製品のクレームやリコール、事故や火災、社員のセクハラ、パワハラ等々、自社が世間にご迷惑を掛け、頭を下げるべき出来事)が生じたときのマスコミ対応である。記者会見をセットし、経営者の出席を手配し、出席の役員に頭の下げ方の角度を指導し、誤解に基づくマイナス情報が発信されないように、的確な説明を行うことを以て「火消し」という。災いは何時やってくるか分からないから、広報部門には、つねに非常事態に備える準備が必要である。
「ばらまき広報」とは、広報部門のもっとも日常的な業務で、広報資料(業界ではレリース=releaseと呼ぶ)という自社が世間に発信したい情報を書いた書類や写真を記者倶楽部に一斉に配布し、マスコミからの取材に応える仕事である。只ばらまいただけでは取り上げてもらえないので、取材する側との日常のコミュニケーションが大切である。時には特定のメディアに大事なニュースをリークし、大きく取り上げてもらうような寝技も使う。
「仕掛けの広報」とは、イベント、コンクールなどを広報部門側で企画し、マスコミに取り上げてもらうニュース自体を創造する仕事である。たとえば新商品の感想文コンテストなど、ニュースの内容はたわいないものも多いが、広報担当者の企画センスが問われる。
広報の仕事は、宣伝に比べると地味だが、時にはコストを掛けずに社名や商品名を情報発信することもできる。企業人の仕事としては魅力的な部門の一つだ。
2016年9月1日
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稲荷寿司
このところ、歴史認識だとか、科学技術だとか難しい話が続いたので、今月は庶民一般の大好きな食べもの、稲荷寿司の話を書く。
まず、1837年(天保8年)から書き始められて、約30年(ちょうど幕末まで)書きつながれた喜多川守貞という人の著書「守貞漫稿」という本のことを紹介したい。
この人は、関西生まれの商人で江戸へ出てきて東西の風俗の違いに驚き、以来、時勢、地理、家宅、人事から始まって、娼家の習慣から男女髪型、浴場、子供の遊びに至るまで風俗百般を調査し、東西を比較、精細な図と共に35巻にまとめた。残念ながら、当時著作としては出版されなかったが、明治になってから翻刻されて世に出た。現在、近世風俗を調べる人にとってはもっとも基礎的な文献の一つだという。
その「守貞漫稿」に掲載されているものが、この世の文献に稲荷寿司が登場した初めだそうだ。
それによれば、天保の末年、江戸で豆腐を油で揚げたものを裂いて袋の形にして、そのなかに木茸や干瓢を刻んだ飯を詰めて、すしと称して売り歩いたもの。油揚を狐が好む故に稲荷鮨、篠田鮨などという名を付けたと記されている。至って安い、下世話な食べ物だとも書かれている。
別の説には、お稲荷さんは五穀豊穣の神様で、お米を俵形に詰めた稲荷寿司は、お稲荷さんを象徴したもの(供え物として適切であった?)であるというのもある。この場合狐は、お稲荷さんのお使いだから、稲荷寿司が狐の好物である理由は、「狐が、油揚を好きだから」と言うよりは、稲荷寿司は五穀豊穣の象徴だからということになる。どちらでもよいような話だが、この稿の筆者はかねてから、狐という動物は本当に油揚が好きなのだろうか、という疑問を持っていて、一度試してみたいと思いつつその機会を得ないでいるので、あえて、別の説も紹介した次第である。
稲荷寿司を江戸時代に紹介した別の文献にも、「安い」「下世話」という話は大概書かれていて、新鮮な魚を握った握り寿司を高級として、油揚に飯を詰めた稲荷寿司を下世話とする風潮は、稲荷寿司ができた頃からあったらしい。「天言筆記」という本には、飯の他におからを詰めた稲荷寿司をわさび醤油で食べる話が出てくるそうだ。これなど読者の家庭で容易に試すことが可能なので一度是非、挑戦してみられることをお勧めする。
稲荷寿司の形は、俵形が基本だが、土地によっては、三角形のものもある。西日本の稲荷寿司に三角形のものが多いらしい。助六寿司というのは稲荷寿司と切った巻物が一緒に出てくるものだが、これは歌舞伎の登場人物助六の恋人が吉原の花魁揚巻で、「揚げ」と「巻物」であるという江戸っ子流の洒落である。
さて、以前神様の方のお稲荷さんのことを書いたときにもご紹介したかもしれないが、この稿の筆者の愛して止まない稲荷寿司は、東京六本木のホテルアイビス地下にあった「おつな寿司」の、油揚が裏返しになった稲荷寿司。筆者が宣伝マンであった時代に、よくタレントさんの楽屋見舞いに用いたものだ。現在ホテルアイビスは再開発工事中だが、ネットで調べた限りでは「おつな寿司」は近くに移転して営業しているらしい。
「おつな寿司」
東京都 港区 六本木 7-14-16 03-3401-9953 http://www.otsuna-sushi.com/2016年8月1日
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水素社会
東日本大震災の後、2011年8月号の本欄で「節電、蓄電、自家発電」と題し、地球温暖化防止と脱原子力のための代替エネルギーについて書いた。その続きの話である。
「節電、蓄電、自家発電」の要旨は、電気というものは水の流れのようなもので、貯めておくことが難しい。もし真夏の昼間電力の10-20%程度でも貯めておくことができれば、発電所の数をかなり減らすことが出来る。脱原子力発電も可能かもしれない、というものであった。具体的な例としては、揚水発電と言って、夜間電力で水をポンプで高所に汲み上げ、昼間その水をダムから落として水力発電を行う術などを紹介した。
さて、世間でよく知られる、太陽光発電や風力発電などには、一つの欠点がある。それは、不安定で、要るときに使えるとは限らないということである。真夏の昼間、ものすごく暑い日に太陽光で発電することは出来そうだが、風が吹かなければ風力発電は出来ない。
つまり、代替エネルギーによる発電は、人々が電力を欲しいときに、当てにならないことがあるという訳で、その欠点が原子力発電推進論の一つの論拠になっている。ところが、電気を貯める(電池代わりの)手段として、水素というものが最近有力になってきた。
水素は、地球上に水という形で普く存在している。電力の原料としては木材、石炭、石油などの炭素系の化石燃料や、ウランなどの核燃料に比較しても、入手はきわめて容易である。とくに我が国の様な海洋国家の場合、国の四囲は水だらけである。
さて、よく知られているように水の構成要素は水素原子2個と酸素原子1個である(H2O)。水の分子の水素と酸素は、固く結合しているのだが、電気を与えると分解する。これを水の電気分解という。水が電気分解すると酸素は大気中に放出され、残りは水素ガスになる。その水素ガスをタンクに貯めておいて、電力が欲しいときに大気中の酸素と再び結合させると水になる。水素と酸素が結合して水が出来るときには、電気分解と逆の原理が働いて、電気が放出される。石炭や石油を燃やす(酸素と結合させる)と二酸化炭素が大気中に放出されるのだが、まあ簡単に言えば水素を「燃やして」も水しか出てこない。その上結構なことには、水素と酸素が結合し水となるときに、電気が出てくるのである。一つ問題があるのは、この水素燃料電池の仕組みは、現在の所まだロスが大きい。最大でも、水を電気分解するときに使った電力の60-70%くらいしか、回収できない。
現在の技術では、水から水素をつくるよりも、むしろ天然ガスから水素を取り出す(改質という)方が、効率は良い。既に市販されている「エネファーム」などの水素発電装置は、天然ガス改質法を用いているが、これだと有限の化石燃料を使うし、改質の過程で二酸化炭素も発生する。
やはり、将来の技術の本命は、水の電気分解であるだろう。水の電気分解効率が向上し、且つ水素ガスという一種の危険物を都会の中で安全に管理する技術が進めば、太陽光や風力発電で得た電力を用いて、水を分解して水素を貯め、その水素を電力が欲しいときに水に戻して電力を取り出すという方法が、代替エネルギーの本命となることだろう。
注:本稿は、「東芝が目指す水素社会」のホームページに取材させていただいた。http://www.toshiba.co.jp/newenergy/2016年7月1日